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2016年09月03日17:14

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第592回 札幌交響楽団定期演奏会

【プログラム】
1 デュティーユ: 交響曲第2番「ル・ドゥーブル」
     〜〜〜休 憩〜〜〜
2 ベルリオーズ: 幻想交響曲Op.14

ハンス・グラーフ(指揮)
札幌交響楽団

《ロビー・コンサート》
J.S.バッハ: 主よ,人の望みの喜びよ
G.Ph.テレマン: 協奏ソナタニ長調より第1楽章
G.カッチーニ: アヴェ・マリア

 前川和弘(トランペット)
 河邊俊和,竹中遥加,織田美貴子,多賀万純(ヴァイオリン)
 青木晃一,鈴木勇人(ヴィオラ)
 小野木遼(チェロ)
 稲橋賢二(コントラバス)

2016年8月26日(土),14:00〜,札幌コンサートホールKitara


第592回定期演奏会で,札幌交響楽団はフランス音楽に挑んだ。ロマン派音楽の嚆矢であるベルリオーズの「幻想交響曲」と現代作曲家デュティーユの交響曲第2番「ル・ドゥーブル」という取り合わせである。いずれも独墺系とは趣の異なる交響曲。

この演奏会では,フランス音楽の多様性が印象に残ると同時に,その底流ともいうべき知的な明晰さと透明感を垣間見た思いがした。また,斬新な音響や作曲技法を求めて袋小路に入り込んだ現代音楽に対するアンチテーゼが広い層に受け入れられる素地ができつつあるようにも感じた。

この演奏会のタクトを託されたのはハンス・グラーフ。ザルツブルク・モーツアルテウム管弦楽団のシェフとして記憶にとどめていたが,実はデュティーユの管弦楽曲集成を作曲者本人の立会いのもとでレコーディングした実績があり,デュティーユのスペシャリストでもある。ちなみに今年はデュティーユ生誕100周年にあたるそうだ。

デュティーユの「ル・ドゥーブル」には「大オーケストラと室内オーケストラのための」という説明がつけられている。作曲者自身の言葉によれば,「ドゥーブル」とは「分身」を意味し,「2つのオーケストラが共存し,1つがもう1つの反映となり『分身』を形づくる」ことから「ル・ドゥーブル」というタイトルをつけたとのことだ。この作品はボストン交響楽団創立75周年を記念する委嘱作で,ミュンシュ指揮のボストン響により1959年に初演された。

「大オーケストラ」は,ほぼ標準的な2管編成に多種多様な打楽器(大太鼓,小太鼓,タムタム,ヴィブラフォン,シロフォン,シンバル,サスペンデッドシンバル,トライアングル,グロッケンシュピーゲル)とハープが加わる。一方,室内オーケストラはオーボエ,クラリネット,ファゴット,トランペット,トロンボーン,ティンパニー,チェンバロ,チェレスタそして弦楽四重奏という編成。大小2つのオーケストラを組み合わせるという発想,さらにパーカッションの多用とグロッケンシュピーゲル,チェンバロ,チェレスタの使用で生まれる響き,さらには2つの音響体が反響しあうという趣向は現代作品ならではのものだ。

青澤唯夫の曲目解説によると,デュティーユの「初期の作品は印象主義だった」が,交響曲第2番やチェロ協奏曲などで「旋法と無調音楽を織り交ぜ,繊細なリズムによる夢幻的な作品に独自の境地を拓いた」。「因習的な12音技法や急進的,前衛音楽の潮流とは生涯にわたって一線を画し,ドビュッシー,ラヴェル,ルーセルなど近代フランス音楽の伝統を受け継ぐ洗練された音楽を生みだした。独特の変奏技法,高度な管弦楽技法も特筆すべきもの」である。

このプログラム・ノートに何かを付け加えることは蛇足以外の何ものでもないことは百も承知のうえで,個人的な感想を少しだけ記す。旋法と無調音楽を織り交ぜ,パーカッションを多用した繊細なリズムによる夢幻的な音楽という点に関しては,ガムラン音楽から大きな衝撃を受けたドビュッシーの遺産をデュティーユが受け継いでいることは間違いない。また因習的な12音技法や急進的,前衛音楽の潮流とは一線を画すというスタンスは,ラヴェルから強い影響を受けていることを示すものだと思う。デュティーユの作品がもつ知的な明晰性と透明感にフランス近代音楽の精髄を見た思いがして深い感銘を受けた。これらがフランスの伝統に由来するデュティーユの特質だとすれば,この作品の持つ新古典主義的な形式感や無機質なところのあるサウンドはこの作曲家が同時代の空気にも敏感であったことの証左であろう。ストラヴィンスキーがパリを拠点に活動していたことを考えれば当然のことであるが。

それほど多くの時間をこの曲の練習に費やすことが困難な事情を考慮すると,この作品の演奏に関して札響は健闘していたと評価できる。だが,それと同時にこのオーケストラの限界も見えてきたような気もした。デュティーユの繊細なリズムによる夢幻的な作品を表現するうえで決定的に重要な精緻なアーティキュレーションが充分とはいい難い,やや粗いレベルだった。そして,この作品の表現に求められるクリアーな透明感も不足していた。おそらくこれがいまの札響の限界であると同時に,指揮者の力の限界でもあるのだろう。グラーフの頭の中に明快なイメージがあったとしても,それをオーケストラに対し的確に伝えられなかったことは否めない。とはいえ,この作品を取り上げたことは,慧眼であり大いに評価する。

後半の「幻想交響曲」も佳演だった。絶賛に値する演奏というわけではないが,かといってお話にならない水準の演奏というわけでもない。欲を言えば,「幻想交響曲」のもつフランス風の色彩感やファンタジーの表現が物足りない。総じてコンパクトにまとまった演奏ではあるが,抑制が利き過ぎていて大胆さが不足しているといえる。とはいえ,第2楽章「舞踏会」のワルツの華やかさがダイナミックに表現され,第3楽章「野辺の風景」や第5楽章「魔女の夜の宴〜魔女のロンド」での乾いた響きが冴えるなど,楽章が進むにしたがって調子が上向きになったことも事実である。オーケストラと指揮者との息が合ってきたためだろう。

いわゆる「前衛音楽」が袋小路に迷い込んでしまった現状で,デュティーユを取り上げることの意味は決して小さくないだろう。原点とまでは言わないが,ある地点まで引き返して音楽を創作することの意味を考え直すには好都合な作品をこの作曲家は書いたように思う。そして彼の作品をとおして,フランス音楽ばかりかフランス文化の根幹にふれたようにも感じ知的な興奮をも覚えた。

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