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2016年06月25日21:38

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柏原陣屋と丹波市柏原町の建築巡り

本日は兵庫県丹波市にある柏原町に行ってきました。
丹波市柏原町は旧氷上郡柏原町。江戸時代は柏原藩の置かれた街です。
柏原町は子供の頃に亡き祖父に連れられて行った記憶があります。
前回の山家陣屋に続き祖父と行った場所を辿る旅になりましたが、当時の記憶は柏原陣屋と神社にある三重塔のみ。あれから随分時が経ったけど、どうなっているか。
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まず最初に訪れたのは柏原陣屋。柏原藩2万石の政庁だった場所。
柏原藩は元々織田信長の弟の織田信包が3万6000石で立藩したのが最初ですが、3代織田信勝には後継ぎが生まれず改易。信包系統の柏原藩はここで終わり、45年にわたり天領となりました。
元禄8年に織田信長の次男で織田信雄の子孫にあたる織田信休が2万石で入部。以後10代にわたり信休系統の織田家が藩主を務め明治を迎えました。
5代藩主織田信守の代に信守が藩政が苦難にある中で贅沢を極め重税を課すなど暴君であったため、藩内は荒れ後の藩政に大きな混乱を生じたといわれます。
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柏原陣屋長屋門。柏原陣屋は文政元年に火災により焼失し御殿は文政3年に再建されたものですが、この長屋門は焼け残ったため、柏原陣屋創建時の正徳4年のものです。
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柏原陣屋表御殿。文政3年に再建されたもので明治維新後は小学校として使用。その後取り壊され現在は表御殿の部分しか残されていません。
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敷地内にあった平面図。緑の線で囲まれた部分が現存部。当初の1/5しか残されていません。
残念なのは大正3年に取り壊された中ノ口・御広間・大広間等・御家具部屋・御用所の部分。
明治維新後ならともかく、大正期なら古建築に対する認識ももう少し見直されていたはずですし、もし残っていたら見ごたえがあっただろうと。
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柏原陣屋表御殿の背部。かつてはここも建物がつながっていたわけですが、昭和期に改築され洋風な造りになってます。
江戸時代の城郭御殿建築は多くが取り壊され当時のまま残されているのは二条城二の丸御殿や川越城本丸御殿、高知城本丸御殿など数例しかありません。一部のみ残されているのは他にもあります。
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私が行ったのでは旧丹波亀山城新御殿玄関ですね。玄関部分は御殿でも一番シンボリックなせいか、一番多く残されています。やはり玄関の唐破風の立派さが際立ちますしね。
柏原陣屋は国指定史跡に指定されており、平成15年から平成18年にかけて修復されました。
私がかつて訪れたときは修復整備前でもう少し荒れていた記憶があります。
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その柏原陣屋の隣にある西洋館。旧氷上高等小学校。明治18年築の擬洋風建築の建物で、貴重な明治前期の近代建築として県指定文化財に指定。去年修復整備が終わり「たんば黎明館」としてリニューアルしました。
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玄関部分のステンドグラス。
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内部は明治期の姿が良く残されています。
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次に向かう途中で立ち寄った洋館。柏原高校柏陵記念館。
旧柏原尋常中学校本館で明治30年築。国指定登録文化財。
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写真は道路から見える裏手。正面を見るには柏原高校の敷地に入らないといけないので見れないのが残念。旧氷上高等小学校とと同じ擬洋風建築ですね。
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柏陵記念館を過ぎて向かったのが織田家廟所。
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柏原藩主織田家の墓所で9代までの藩主の墓があります。
小藩の墓所なのでこじんまりとしています。会津松平家の墓所に行ったことありますが、さすが大藩といった規模のでかさでさすがに比べるとね・・・。
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初代藩主織田信休の墓。
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かつては藩主の菩提寺であった徳源寺がありその境内の墓地でしたが、明治維新後に廃寺となり今は墓所のみ残されています。案内板もあり地元の人によって清掃などの管理もされているようですが、それでも崩れた土塀などの荒れっぷりを見ると物寂しい雰囲気を感じました。
ここ数日続く雨のせいか廟所の敷地には水が溜まっていましたし。
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市街地に戻り向かったのが丹波市柏原支所。旧柏原町役場。昭和10年築の洋館。
柏原町は小さい街ですが、前出の旧氷上高等小学校や旧柏原尋常中学校など戦前の西洋館が良く残されています。
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柏原支所から少し歩いて向かったのが太鼓櫓。大手門の側にあった柏原藩時代の建物で柏原陣屋創設の正徳4年頃の築と思われます。
文字通り櫓内の太鼓を叩いて時を知らせたり藩主の江戸からの帰還を知らせたりしていた建物。
同じ役目を負った太鼓櫓としては出石のシンボル辰鼓楼が有名ですが、それのミニ版ですかね。
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規模的には南丹市内の安楽寺に移築された旧園部城の太鼓櫓が近い。
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最後に向かったのが市街地を見下ろす丘にある柏原八幡神社。
天正13年に豊臣秀吉の造営で建てられた本殿と拝殿が現存し国指定重要文化財に指定されています。
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この柏原八幡神社の大きな特徴は境内に三重塔と鐘楼があること。
三重塔は江戸時代後期の文化10年再建。鐘楼は江戸時代のものですが天文12年銘の梵鐘が下がっています。
神社の境内にある寺院建築の三重塔と鐘楼。これは江戸時代まで盛んだった神仏習合の影響です。平安時代頃より盛んになった神仏習合の風習は全国に広がり寺院の中に神社が造られたりその逆で神社の中に仏教の施設が造られ、大きな神社の中には必ず神宮寺がありました。
しかし明治維新直後の明治元年に混在一体化していた神道と仏教を分ける神仏分離令が施行。
これは仏教を排斥す法令ではありませんでしたが、国学者や神社関係者を中心に仏教的なものを排除する廃仏稀釈が巻き起こり、特に神社の境内にある仏教建築や仏像仏具は徹底的に破壊や廃棄されていきました。
なので、現在神社の境内に廃仏毀釈以前の仏教建築がある例はごく少数となっています。
この柏原町でも当然廃仏毀釈の運動は起きましたが、ここでは八幡神社内にあった仏像や仏具は町内の寺院に移されるという穏便な形で行われたようで、この三重塔や鐘楼も町のシンボルであり信仰の対象として根付いていたのか壊されずに残りました。
そのため、江戸以前の神仏習合の形を今に伝える貴重な建物となっています。

柏原の町は本当にこじんまりとした街並みですが、その街中に柏原藩時代の遺構や明治以降の戦前の西洋館などが各所に現存し逆に歴史的建造物が高い密度で残されている形です。
但馬の小京都の出石の街並みほどではないですが、街並み探索としては十分楽しめる街でした。

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