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2016年06月21日17:26

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職業大学創設より日本文化の再興を 新潟県立大学教授・袴田茂樹

 下記は、2016.6.21 付の【正論】です。これは大変重要な事を指摘していると思います。

                       記

≪文学の朗誦に圧倒された学生≫

 大学での講義の時、モスクワからの交換留学の女子学生に露語のプーシキン詩集を手渡して、この中からどれでも一つ、日本人学生に読んで聞かせてほしいと頼んだ。受講生の多くは露語を知らないが、生きた言葉の雰囲気だけでも味わわせたかったからだ。

 女学生は、教壇上で詩集の目次に目を通すとそれを閉じて、一つの詩を身ぶり手ぶりを加え雰囲気たっぷりに朗誦(ろうしょう)した。ロシアの古典詩などは彼女の身体が覚えているのだ。その迫力に日本人学生は圧倒され、そして自分たちの文化的な貧困を痛感させられた。

 先日モスクワを訪問したとき、文化人たちの「朗読の夕べ」を聴きに行こうと誘われた。ロシアの著名な文化人が幾人か壇上で自作の詩、文章などを朗読するのだが、熱っぽい会場で聞いている数百人の聴衆の中にも、著名人が沢山(たくさん)いてお互いに挨拶している。

 モスクワオリンピックの開催時(1980年7月)に、ソ連の著名な詩人で俳優のV・ヴィソツキーが亡くなった。私もタガンカ劇場で彼の自作詩のギターによる弾き語りを何回か聴いている。彼の追悼会場にはオリンピックのどの会場よりも多くの人が集まったという。当時のソ連人で彼の詩を知らない者はほとんどいなかった。

 スターリン時代に何年も収容所生活をした女性作家のE・ギンズブルグは、囚人用貨物列車に詰め込まれて何日もシベリアへの旅をする話を自伝に書いている。本の持ち込み禁止で窓もない貨物車の中の流刑囚たちの楽しみは、彼らの多くが暗記している文学作品や詩の朗誦で、それが文字通り逆境で生きる力を与えたという。何百もの作品を暗誦できる者もいて、何時間でも何日でもこれは続いたそうだ(『明るい夜暗い昼』)。

≪古典に親しむのは絶望的か≫

 先日、夏目漱石が読者から受け取った絵はがき312通が発見されたと各紙が伝えた。その中に社会主義者・堺利彦からのものもあり、エンゲルスの肖像の絵はがきには、出版されたばかりの『吾輩は猫である』上巻(1905年)を、早速3晩かけて家族に朗読した、と書いてある(読売新聞)。

 山本夏彦氏によると、明治までの文は音読されることを前提としている。文には千年以上の和漢の古典により醸された美とリズムがあり暗誦に堪えた。しかし大正以後、口語文が中心となって暗誦に向かず、口語自由詩は詩の体をなさず読まれなくなった。そして「世界広しといえど誦すべき詩歌を持たぬ国民があるか」と嘆く。

 私はクリスチャンではないが、小学生のころ日曜学校で聖書を朗読していた。文語訳だったが、小学生でもそのリズムと高い格調を体が覚えた。その後、口語訳の聖書が普及したが、今も口語聖書は生理的に受け付けない。氏も「聖書を口語文に改めたと聞いてほとんど驚倒した」と述べている(『完本文語文』)。

 これまで述べたことは、現代の日本の文化・教養のあり方やその背景の教育に、根本的な問題があるのではないか、との問題提起をするためである。筆者自身、江戸・明治時代の人たちと比べて、自らの古典の教養や詩歌の素養の貧しさに忸怩(じぐじ)たる感を抱いている。

 私が学校の国語の時間に受けた古文や漢文の教科は、まさにそれらを嫌いにするための教育だった。多くの国の学校では、国語文法の教科と文学作品や古典を味わうための科目は別だ。しかしわが国では、国語科目の中ですべてを教えようとする。したがって、文学作品、古文、詩歌なども断片化されて、単なる文法教育などの素材にされてしまう。では、今の若い人には古典や芸術に親しむ教育はもはや絶望的なのか。

≪近代化を成し得た文化の蓄積≫

 問題は教育のあり方にあるのではないか。今20代、30代の者は、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」や「椰子(やし)の実」もほとんど知らない。お札の図柄にもなった樋口一葉だが、明治の彼女の作品も読むのは難しいという。しかし、「にごりえ」の冒頭の文を、会話と地の文を区別しつつ朗読してみせると、何とか分かるという。

 「源氏物語」も、国際政治を学ぶゼミ学生に現代訳の一部を読ませ、内容が理解できたら、その部分の原文を文法など考えないで、市販の朗読を参考にリズム感をもって音読させる。さらに、最も気に入った1ページを和歌とともに暗記させて朗誦させる。すると、古典に疎い今の学生でも、「現代訳はもはや源氏物語ではないですね」とさえ言う。

 先日、放送大学を聴いていたら、国文学者が源氏物語をその筋の面から、倫理や人間関係を考える素材として解説していた。ナンセンスである。洗練されたその言葉や和歌のセンスを味わうことこそが醍醐(だいご)味ではないか。

 明治期に短期間に近代化を成し得たのは、単なる実学教育ゆえではなく、江戸時代までの高度な日本文化の蓄積ゆえだった。文科省は専門職業大学の創設を目指しているが、その前にやるべきことがあるのではないか。(新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)

 http://www.sankei.com/column/news/160621/clm1606210009-n1.html
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