mixiユーザー(id:8306745)

2016年04月14日21:41

103 view

「選ぶ」という事。「選ばない」という事。

一昨日のマニュアル車にまつわる日記が
思いのほか賑わう。

今もマニュアルに乗り、マニュアル車で
運転する事が大好きな人達が、それぞれに
自分の言葉を綴ってくれた。

ちょっとした名言集のような趣きだ。

曰く「楽じゃなくて、楽しい運転が良いよね」
曰く「今の車は「操作ミス」を減らし「不注意」
(と「不具合」)を助長する方向に進化し続けています」
曰く「やはり「人が操るもの」であって欲しいですね」
曰く「便利になるのは良いんですが、便利になり過ぎると
それに依存してしまって却って危ないような気がしますね」
曰く「MT車の操作は「過去の試行錯誤と犠牲から生み出された、
一つの完成形」で、AT車は「実はMT車とは根本的に異なるのに、
車体の設計も、運転教習も、MT車のそれを上辺だけなぞっている」
と言う、人間工学的に本質的な欠陥を孕んでいるんではないかと
愚考しています。

etc.etc...。

これらは実に精度が高く、硬質だ。

全て、自分が運転してきた事で得た言葉だったから、だろう。

そして、その夜思った。

自分は確かに今、マニュアル車を、BEATという車を
選んで乗っている。
オートマ車は、一番最初に免許を取った時の日産サニー以来
一度も買う車、乗りたい車の候補に上がった事は無い。
オートマでは無く、マニュアルを「選んだ」訳だ。

そう、マニュアル車とは、昨今の日本の自動車事情において、
「選ぶ」物なのだ。

片や、日本で走っている車で商用車や特殊車両を除いたら
90%以上と云われるオートマ車は、どうだろうか?

オートマは、選ばれるものでは無いのではないか?
オートマは、その便利さ、発展の歴史を鑑みても
時代の要請に拠るシステムに他ならない。
そして、その利便性は瞬く間にマニュアルミッションを
市場から駆逐した。

既に、オートマは「選ぶ」ものではないのだ。
ただ、「そこにある」。

別にオートマを腐そうという腹ではない。
ただ、マニュアル車は「選ばなければ乗れない」車であり、
オートマは「選ぶ必要が無い」車である。

個人的には、この差は非常に大きい。

選ぶ、という行為は判断と決心の連続である。
漫然と行う行為ではない。
マニュアル車を乗る、という事は「オートマではいけない」理由があり、
その理由こそが、先日この日記にそれぞれの徒然を書いていって
くれた人達の動機であり、意味なのであろう。

「選んだからこそ」人はその理由を、動機を、意味を
必然を愛し、大切にする。

それは、他のありとあらゆる森羅万象に適用出来る事なのだろう。

ある物、ある人、ある環境、ある行為、ある信条、ある団体を
選ぶ事で、人はそれ以外を「選ばない」。
選ぶ事で選ばない事を選択するのだ。
そして、それが「選ばれなかった」理由にはある一つが
「選ばれた」事よりも遥かに多くの要因、理屈が、直感が存在する。

選ぶ事に拠り、選ばなかった事が改めて浮き彫りになる。

選ぶ事をせず、ただそこにそれがあるからそれを選ぶ、という
事は実は「選択」ではない。

そこに「選ばなかった」という事実が存在せず、
選ばれなかった事象も存在しないからだ。

更に云えば、そこに「思考」は無い。
思索も生まれ得ない。

だからこそ。
それ故に。

そして、自分の好きな言葉である、「それでもなお」。

ここには選んだからこそ、また選ばなかったからこそ、
育まれる歓喜と、ひとつの意味が存在しているのだ。

とても、実り多い経験でありました。

それを齎してくれたBEATに、感謝を。






■若者が車を購入しない理由1位「買わなくても生活できる」――「買い物でローンや借金はしたくない」という傾向も
(キャリコネ - 04月14日 13:40)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=3946550
2 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する