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2015年10月09日17:43

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言志録14「多聞多見」

【現代語訳】
他人の善行を見習って自分のものにしようという心があるのならば、父兄、師友(先生や友人)の言葉を素直に聞くことが少ないことを心配する。まで読書にしても、なるべく多くの本を読まないわけにはいかないだろう。聖人・賢人がいわれた「多聞多見」の真の意味とは、このことである。

【原文】
吾既に善を資(と)るの心有れば、父兄師友の言、唯だ聞くことの多からざるを恐る。読書に至っても亦多からざるを得んや。聖賢云う所の多聞多見とは、意正に此の如し。 (言志録第14条)

【解説】
「われ以外はみな師である」といって、見聞するすべてのものから知識を得て、作家となったのが『宮本武蔵』を書いた吉川英治である。
吉川は尋常小学校中退であったが、子どもの頃から本が好きで、ある印刷工場に勤めていたときは、そこにあった百科事典を50回も読んだという。作家となってからのことだが、高級料亭で文壇仲間と食事をした。
メニューに「強魚」というのがあったが、誰も読めない。すると吉川が「これはシイザカナと読んで、お腹にたまらないものだから、ムシカレイか何かが出てくるんじゃないか」というと、案の定ムシカレイが出てきた。
吉川以外はみな大学出であったが、小学校中退の吉川のほうが博学であったのである。
これこそ「多聞他見」の賜といえる。
学問とは「教わる」ものではなく、学ぼうとする意志である。
・・・・岬龍一郎編「言志四録」(PHP)より。

【解説2】
資善の心とは、他人の善言善行をとって自己の善としようとする心、のことだそうです。
一斎先生は、他人の欠点ではなく、長所を見て、徹底的に学びとろうとする姿勢を重くみています。
もともと「学ぶ」ということばは、「真似ぶ」ということばが語源だという説があります。
学ぶとは、その本質を理解することに他なりません。
ただ単に言葉を暗記するとか、行為をモノマネするだけでは、学びではありません。
孔子も言われるように、疑問に思う所は徹底的に取り去り、その本質をえぐり出すまで思索し、実践することが求められます。
つまり、真の多聞多見とは、常に現状に満足せず、学び続ける姿勢を貫き続ける人のみがたどり着ける境地であって、決して知識をひけらかすことではないということです。
小生にとっては重い戒めの章です。
・・・・・一日一斎・『言志四録』を味わう(インターネット)より。




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