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2015年04月19日10:58

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すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。



トラインの翻訳書である吉田利子氏「人生の扉をひらく『万能の鍵』」(サンマーク出版)の第一章の冒頭は、次のような文で始まっています。

宇宙中心にある偉大な事実――それは、すべての背後には、「無限の生命と力のスピリット」が働いていてすべてを動かし、すべてを通じて、すべての中に現れている、ということである。すべては、この自立した生命の原則から生じた。

すべてが生じたばかりではなく、いまも生じ続けている。個々の生命が存在するなら、個々の生命のもとなる限りない生命の源が存在しているはずだ。

愛という資質、愛という力が存在するなら、そのもととなる限りない愛の源が存在しているはずだし、知恵が存在するなら、そのもととなるあらゆる知恵の源が存在しているはずである。同じことは平和についてもいえるし、パワーにもいえるし、それにわたしたちが物質と呼ぶものにもいえることである。

そうだとすれば、すべての背後にある「無限の生命と力のスピリット」はすべての源なのである。

この無限のパワーが不変の法則を通じて創造し、作用し、支配している。そして、その力がわたしたちを取り巻く宇宙全体に貫かれているのだ。日常生活のあらゆる行動も、その偉大な法則と力が律している。道端に咲く花々は偉大な不変の法則に従って芽生え、育ち、咲き、枯れていく。天と地のあいだを舞う雪のひとひらひとひらも、偉大な法則に従って形づくられ、舞い落ち、消えていく・・・・・・・・。

ある意味では、壮大な宇宙にあるのはその法則だけだともいえる。それが真理なら、その法則の背後に何らかの力があってさまざまな法則を生み出しているはずだし、その力はさまざまな法則よりもさらに偉大なもののはずだ。

すべての背後にあるその「無限の生命と力のスピリット」を、わたしたちは神と呼ぶ。呼び方は何でもかまわない。「優しい光」でも「恩寵」でも「偏在」でも、わかりやすい言葉なら何でもいい。

すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。したがって、わたしたいは、神のなかで生命を得て、動き、存在しているわけで、神は私たちの生命であり、人生そのものなのだ。

わたしたちは神から生命を授けられたのだし、いまも授けられ続けている。私たちは神の生命の一部なのだ。私たちは神とは違うが、それは私たちが個々のスピリットであるのに対し神はわたしたちすべても、わたしたち以外のすべても包み込む「無限のスピリット」であるからで、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものなのである。本質的な違いがあるわけではなく、それは程度の違いにすぎない。

・・・・・・・・以上。


最近、数10年ぶりに「生命の実相」を読みはじめましたが、その第3巻の内容が、このトラインとまったく同じことを言っていますので、以下、抜粋要約します。

私たちの本当の生き方とは、個々人のうちに、無限を意識し、日常の生活が無限のうちに融かされ生かされ、無限の知恵に導かれ、少しの恐怖も、不安も、悲しみも、憎しみも、嫉みも無しに生活する生き方であります。

すべての心の不安も、恐怖も、憂鬱、とり越し苦労という精神的な苦痛はもちろん、現実の病気災難というものも、われわれが神から離れることによって起こるのであります。神はすべてを支配し給うのでありますから、われわれはいかにしても本当に実在せる世界、すなわち「実相世界」においては神から離れることはできないのであります。

まことにも神は全実在の根元であり、全実在は神の展開創造でありますから、神をいかなる相談(すがた)において観るかということは、非常に大切なことであります。それは実に全実在をいかに観るかということになるのであります。

創造の神を不完全と観るものは、その創造になる全実在を不完全に観ることにならざるをえないのであります。

そして、この現象世界は、われわれの心に描いた観念の投影せる影でありますから、神を不完全だと観る者の現実人生は不完全となるのであります。完全なる神が実在し給うにもかかわらず、完全なる神を離れて自由に空想を馳せて不完全なる神とその世界とを想像する――これを、神を離れるというのであります。

では、神から離れない人の人生はどうなるのであるかと申しますと、神の創造(つく)り給いし完全の世界、調和の世界が「転倒の念」というレンズがないために、屈折せずに、真っ直ぐにこの現象世界(うつしよ)にあらわれることになり、この世界が、神の造りためるままに完全な調和した世界となるのであります。
・・・・以上。





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