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2015年01月17日09:38

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中国古典に学ぶ「天の存在」



中国古典の権威・北尾吉孝氏は、「君子を目指せ小人になるな」(致知出版)で、中国古典で学んだものとして、次のように言われています。

「天の存在」を信じる心

私(北尾氏)は、幼い頃より人知を超えた何か大きな、根源的な存在を感じていました。
そうした根源的な天の存在を認識したとき、人間は変ります。

「大学」に「君子は必ず其の独りを慎む」とありますが、そういう意識が芽生えてきたのです。

人目のないところでも、天は自分を見ている。自分一人のときでも自らを律しなくてはいけない、という気持ちになるのです。このことを「慎独(しんどく)」といいます。

老子のなかに「天網恢恢、疎にして漏らさず」という言葉あります。「天の網の目は非常に粗いように見えて、決して悪を逃すことはない」という意味です。

また「後漢書」には「天知る、神知る、我知る、子知る、何ぞ知ることなしや」とあります。ある男が夜中に賄賂を持ってきて「誰も見ていないからどうぞお受け取りください」と言ったそのときに、その相手の口から出た言葉です。

これは「(誰も見ていないと言うが)天も知っている、神も知っている、私自身も知っているし、あなたも知っているじゃないか。どうして誰も知らないと言えるのか」と言っているのです。

さらに中庸のなかに「隠れたるより見(あら)わるるはなく、微(かす)かなるより顕(あきら)かなるはなし、故に君子はその独りを慎む」とあります。

「人が見ていないから露見するはずがない、目で見ることができないような微々たることだから外に表れるようなことはないと思っても、いつか必ず他に知れてしまう」という有名な言葉です。

だから「徳行の優れた君子という者は、その独りを慎み、誰も見ていないところであっても、人道に外れたことはしないものだ」と言うのです。

西郷隆盛の「南洲翁遺訓」のなかに次の言葉があります。
「至誠の域は、先ず慎独より手を下すべし。閑居は即ち慎独の場所なり」
独りを慎み、すなわち賭(み)ず聞かざる所に戒慎(自分を戒めて慎む)することが、己に克つ具体的修練の方法であり、それによって私心をなくし、誠の域に達することができる。

つまり、慎独が誠意、誠実、至誠といった域に達するための非常に大事な修業になる、と西郷隆盛は言っているのです。

次は「論語」季氏第十六にある言葉です。
「君子に三畏あり。天命を畏(おそ)れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は、天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言葉を侮(あなど)る」

君主は三つのことを畏れる。一つは天命、自分が天から与えられた命を畏れる。二つ目は大人、立派な人を畏れる。そして三つ目は聖人の言、たとえば孔子の言葉のようなものを畏れる。そして、そういうものを畏れるがゆえに、君子は自分を律していくことができる、というのです。

ところが、小人は天命を知らない。一体、自分はいかなる天の命令を持って生れてきたのか、この世の中でいかなることをしていくべきなのか、そういうことをまったく知らないがために天命を畏れることがない。立派な人にも馴れ馴れしい態度で接するし、聖人の言葉も侮(あなど)るというわけです。

この「畏れる」という態度は非常に大事です。たとえば大人を畏れれば、その大人を尊敬する「敬」の心が生じます。そして、この「敬」の心と一対になっている「恥」という気持ちが生まれてきます。

あの立派な人に比べて自分はどれだけ劣っているだろうかと恥ずかしく思う気持ち、それが「恥」です。「恥」があるから、自分はもっと修行しなくてはいけないと自らを反省し、それをバネにして自分を伸ばしていくことができるのです。

自分を成長させるためにも、天を畏れる気持ちを持つことは非常に大事です。










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