死について最近あれこれ思い、そんな文章ばかり打っている最中、
たった今、電車に人が轢かれて立ち往生する。
多分、彼は死んでるんだろう。
その死は夾雑物でしかない。少なくとも、今車内にいる人々にとっては。
いや、正直になろう。私にとっては、だな。
轢かれるにしても時間選べ。なんて事をすら思う。55年前の死刑囚や、ガンになった役者に捧げうる思いは、彼に対しては微塵も無い。
多分、今死ぬべきは俺なのだ。
これも感傷で意味は無く、この文章にも価値はない。
死は、隠蔽されつつ隠蔽される事に意味はある。
自身の無価値に気づかせない事だ。
死すべき自分の無価値さを隠蔽してくれているからこそ、この地獄のような生に耐えうるのだろう。
今耳に刺さったイヤホンでは死者が歌い、死者が書いた文章を読み、死者が止めた列車に乗っている。
死の方が正しい気がしてくる。やがて、周りは死で埋め尽くされるのだろう。親しき人々も、愛すべき音楽を奏でる人も、強い格闘技者も、天才も瑞々しい文章の書き手も。そんな時、自分は果たして生きているだろうか?
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