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2024年01月16日23:48

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剣禅一如

松本人志の件について書こうと思った。
途中まで書いたんだが、あまりにも文章が稚拙で馬鹿らしくなってきたので中断した。
なんというんだろう、まあ一言でいえば嫌な世の中になったなーというところなんだが、結局、人間の業のようなものがグルグル回り続けて、歴史は作られているんだろうね。

というわけで、話題を変えたい。
ちょっとメンヘラな知人男性と会話をしていて、「僕は魂というものが存在しているのを感じた。死後の世界は存在することを確信した」というような話をしていた。
まーこういうこと言い出す奴って一定数いるようなあ・・といったところだが、僕はその手の話を頭から否定はしないタイプである。
オカルトな話というと、幽霊だの宇宙人だのっていう話になっていくと、ちょっとまあ、それはさすがに、、って思うけど、人間はオカルトを欲するものだし、超自然現象と呼ばれるものっていうのも、人智を超えたものに畏敬することによって、人間の暴発を抑えるものだと思っている。
近代以降は科学至上主義で、合理的な説明ができるもののみが真実だ、という傾向なんだけど、それも結局は行き過ぎると地球の破滅へとつながっていく。前近代は、人々の心にはもっと宗教的な感性があったため、そこまでの暴走は食い止められていたんだろう。
我が国の原始宗教は、とりあえず神道だが、これは多くの原始的な部族と同じく、アニミズム信仰を基本とする。アニミズムとは自然やモノには精霊が宿るという考え方で、あらゆるものに精霊が宿っているゆえに八百万の神という。多神教の考え方は、豊富な自然の中で生きる人々が生み出した智慧で、自然と共存共栄するためには、行き過ぎた自然破壊をしない、という戒めを設けている。
逆の考え方が一神教の神であり、神の意志に従い自然をコントロールする、というもの。これには理由があって、キリスト教などは、中東(ヨルダンかイスラエルか、そのあたりあまり知らない)のように何もない乾燥した砂漠地帯から生まれた宗教ゆえに、自然をコントロールしないと人間が生きていけない環境のなかで生まれた。
大航海時代に西洋のキリスト教民族が、世界を侵略し、キリスト教を押し付けたため、近代以降の世界はキリスト教的価値観に占領されてしまった。グローバリズムなんてのはその最終形態だろう。
日本は、飛鳥時代くらいに大陸から仏教が入り込んできて神道と融合した(今回の文章は調べるの面倒なので、うろ覚えで書いています。細かいところに間違いがあっても気にしないでね)。日本は神道の成り立ち自体が、全国制覇した天皇家と他豪族を合祀するなど、実に寛容なところがあって、仏教もその流れの中で、神道と融合していったわけだ。
インドや中国ではたいして流行らなかった仏教であっても、日本では融合し自分たちに適合するように変えていったため、日本仏教とでも呼ぶべき、独自の仏教が編み出されていき現在に至る。
今でも、法事や葬式などは仏式で行うが、結婚式やお宮参り、七五三などは神式で行う人が大多数だろう。

だいぶ余談が続いたが、「魂というものがあって魂だけが行ける死後の世界が存在する」という発言について。これを言った彼が別に新しい発見をしたわけではなく、既に仏教の浄土思想にこういうものがあるので、だから何なの?になってしまうんだけど、まあ、そういうのを理屈ではなくて、体感として感じたということが言いたいのだろう。
ただ、これも、どういうタイミングでどういう感じ方をしたのか、具体的にわからないんだが、人間は自分の意識では捉えきれない体験をすることがある。僕は特に人生を揺るがすような体験をしたことがないのだが、普段自分の中で保っている理性が、瞬間飛んでしまう、とかそういうレベルの体験は多くの人があるだろう。
何故あの時あんな行動をしたのか?何故あの時あんなことを言ってしまったのか?など、毎日そんな状態だったら、社会の逸脱者になってしまうが、小さい経験なら誰にでもあると思う。
いけないとわかっていても繰り返し不倫をしてしまったり、本当は嫌悪しているはずの暴力的な男と付き合ってはDVを受ける、なども意識とは違う行為である。
これは、精神のメカニズムが、無意識という深く広い大海に満たされていて、意識というのはそのほんの上位にすぎない、という精神分析学の領域である。理性という壁で無意識界を遮断することで、意識の上で社会的生活を営むのが人間の社会的行為だが、理性の壁というのはどんなに固めても、どこかに隙間が出来てしまい、無意識から暗黒のモノが押し寄せてくる。フロイトはそれを説明できない「何か」として「das Ding(モノ)」と呼んだそうだ。
例えば、幽霊をみたりする現象は、この無意識から暗黒のモノが意識に出てきてしまった状態だとし、ここのコントロールができないと、鬱病や分裂症などの症状を発症する。
件の「魂の存在を感じてしまった」彼が、メンヘラなのもなるほど納得といったところだ。
古来から人間の精神史は、いかにこのコントロール不能の無意識と付き合っていくか、に尽力してきたんじゃないかと思う。
宗教はその無意識下にあるモノとうまく付き合うために、座禅だとか護摩行だとか、まあ詳しくはわからないけどそういう修行をするし、また芸術活動を行うことで、その不条理な世界を作品に消化させたりする。
芸術でいえば、パンクなんかはその無意識の衝動を破壊衝動としてダイレクトにぶつけるのでわかりやすいんだが、能楽の世界などもそうだろう。理性ではどうにもできない人間の業を時には狂った形で演じ、魂を消化させる。ちなみに、寸分の狂いのない様式美のなかに、こういった不条理な衝動を表現していく日本の古典芸能は、僕は世界に類を見ない素晴らしさだと思う。
その他にもお笑いなんかもそうだろうな。人間の不条理な行動を笑いに変えることで昇華させる行為で、立川談志が昔言っていたように、落語の世界を現実にやったらみんな犯罪者だよ、ということだ。
犯罪者や精神病理と、優れた芸術家や宗教家との境界線は、ここら辺にあるんじゃないだろうか。

どうも話がポンポン飛んでしまうが、魂なるものが存在するか否かについて。例えば現代生物学の知識と技術を総動員すれば、おそらく、生物に必要な物質をかき集めてその生物と同じ構成で構築すると、その生物と同じものが出来上がるはずだ。
これは論理上の問題であって、じゃあその生物が意志を持つのか?というと甚だ怪しい。
人間の目と同じ構造をもつものを寸分狂わず作ったら、「見える」のだろうか?といわれると、見えないと思う。実際はどうかわからんが、見えるというのが想像できない。これは、「見る」行為自体が、意志によるもので、「見る」という意志が働いて初めて見えるからだ。その意志を作り出すのは、どんなに科学が進歩しても無理だろう。
そうすると、世界のあらゆること、森羅万象を解明しても、そこには辿り着かず、それでは科学では辿り着けないその意志のようなものは、何だろう?となる。それを魂と呼んでも良いのじゃないか、というのが僕の考え。
そこに死後の世界があるかどうかはわからない。ただ考え方として、死後の世界があって、魂はそこに生き続ける、と信じることは全く問題ないと思う。
仏教には休息論という考えがあって、ずっと休息の世界があって魂は休息をしており、ほんの一瞬、それが現世にあらわれてまた休息する。その休息の世界が真実の世界で、死はそこに戻るだけだ、という考え方である。釈迦の涅槃である。
そう考えることで、現世の卑俗な欲望から脱却し、死を受け入れることで豊かな生を生きるという智慧だろう。
要は、真実がどうか、というのはあまり大した意味はない。本当に死後の世界があって魂がそこでずっと生き続けているのか?なんてことを科学的に証明するっていうことには全く意味がなく、そう信じることで、より良い生き方をするというのが大事なのである。
日本には、ご先祖崇拝というものが特に重要で、お盆の時などにご先祖様を供養する。ご先祖様が常に見守って下さるとの信仰だが、現代は、「死んだ者が何かしてくれるわけじゃないじゃん」と切り捨てる傾向にあるんじゃないだろうか?
実際にご先祖様の魂が死後の世界に生きていて、それが守護霊となって私たちを守ってくれることが物理的に正しいかどうかはどうだって良い。そんなことが問題ではない。そのように信仰することで、ご先祖様に恥じないように生きるという行動を律してよりよい生き方をすることが大事なのである。
日本ではその究極の形が、万世一系の天皇であり、血族が長い歴史、栄えていくことを信仰の最たる根拠としている。(日本人にとって天皇制が何故必要なのか?はいずれ書きたいと思うが、また話が飛んでしまうのでやめておく)

昨今は、言葉ばかりが溢れて、論理的に正しいか否かばかりが取沙汰される。
もちろん嘘をついて人を惑わすのは問題ではあるが、言葉の世界など所詮は、現世を生きるための手段の1つに過ぎず、それで真実を全て表すなんておこがましい。言葉ばかりが溢れると、人間は万能感を持ってしまい、まるで自分が神にでもなったような錯覚を起こすのではないだろうか?
ではなくて、言葉では捉えきれないより深い世界ががある、と思うことが大事なんだと思う。別にそれが、メンヘラ男子君のように「魂の世界がある」ことを感じるのでもかまわない。
曹洞宗や臨済宗などの禅宗は、人間には元来、仏性というものが備わっており、そこは欲や執着といった卑俗な世界を超えた悟りの境地だという考えのもと、そこへ至る修行をする。
言葉によって真実へ辿り着くのは所詮まやかしであるため、座禅などの肉体的な体験を通じてそこへ至る修行をするわけだ。
言葉を超越しているため、教義などは特にないのだが、「禅問答」という形で、わかったようなわかんないような謎かけのような問答だけが残される。
夏目漱石は、禅の世界に魅了され、数か月修行した挙句に「則天去私」という概念を見つけました!とドヤって、禅僧たちにバカにされたそうだ。所詮は文学者の限界で、言葉で概念をつかむっていうのが、言葉を拒否する禅宗と全く矛盾しており、本質的に何もわかっていないと。まあそこでバカにする禅僧たちも、意地が悪いというか、悟りを開いたからと言って人徳者とは限らないんだなあ。。と思ってしまうが。
それはさておき、禅ではその修行のひとつに「三昧」というのがある。何かを無心で行い続けることで、何かを悟るというもの。例えば掃除をする時、他の一切の邪念を捨てて無心に床を磨き続けることが重要なんだそうで、それを行うことで何かを体感しようする。禅にとっては掃除も修行の1つなんだそうだ。
これは、アスリートに通じるものがある。例えば、野球選手はひたすらバッドを振るとか。1日1000回ひたすらバッドを振り体力の限界を超えて力も入らなくなりぶっ倒れそうになって、何かを体得する。一見意味のない反復練習が、実は意識を超えた体の奥深い部分に、自分を超越した何かを覚醒させる。
「剣禅一如」という言葉を残したのは、宮本武蔵と同時代を生きた禅僧・沢庵和尚だが、剣豪とか武芸者と呼ばれる人の究極の理念が禅に通じるというところが面白い。
剣術とは究極は生きるか死ぬかの過酷な世界であり、そこには恐怖心や「生きたい」と思う心が必ず出てきてしまう。それを克服する心の在り方が、禅の悟りに近いものなんだろう。究極の状態に追い込まれることで、自分を超越していくあり方が良い。
我々に置き換えると、何も改めて禅の修行をする必要はないんだが、何事も無我の境地に至るくらい全力で生きるしかないんだろうなあ、と思う。魂だなんだってくだらないことを考えているんなら、自分がやるべきことを全力でやる。
結局、実践の中でしかその境地へは至れない。
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