『「水の東西」』
「水の東西」というタイトルの評論を、
国語の教科書で読んだ記憶があります。
水についての、東洋と西洋の捉え方の違い、
という事が、その評論のテーマでした。
西洋では、噴水に象徴されるように、
人工的な造形美を作り出すものとして、
水が扱われています。
それに対して、日本人は、
ししおどしに象徴されるような、
自然と調和し、流れるものとして、
あくまでも水というものを捉えるのです。
その様な、東西比較によって、
日本人の感性を再発見する、
というのが、その評論の主旨でした。
同じ人間でも、洋の東西によって、
文化や生活様式は、かなり変わります。
そして、日本人から見ると、
西洋のものは馴染みがなくて、
自分には関係のない、よそのもの、
という捉え方になるのかもしれません。
正確には、聖書の中の出来事の舞台は、
現在のイスラエル国のある中東なのですが、
日本では、キリスト教といえば、
西洋の宗教、と思われがちです。
それこそ、日本の文化に馴染みそうもない、
荘厳な佇まいの礼拝堂や、壁画などを、
連想するかもしれません。
しかし、それは西洋の文化の形に過ぎず、
聖書が伝えている事の本質ではないのです。
互いに愛し合うとか、
許し合うという、普遍的に価値のある事を、
聖書は伝えています。
そして、価値のあるものの根拠が、
この世界を創られた方にある、
という事を、はっきりと伝えています。
この世界を創られた方がいて、
私には創り主がいて、
創り主は私のことを大切に思っている、
という価値観に立つことが出来ます。
どんなに孤独でも、神様がいるから大丈夫、
という価値観の根拠を、
聖書に見出すことが出来ます。
教会とは、無数の壁画に彩られた、
豪華な建物のことではなくて、
聖書の価値観に立つ人が集まり、
交流する、その交わりの場のことです。
聖書が現わしている価値観は、
どの文化の中にも生きる、
普遍的なものです。
むしろ日本人だからこそ、
その本質に触れられるのかもしれません。
いつも読んで下さり、
ありがとうございます。
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