【第5条原文】
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、
神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々
【第8条原文】
念仏は行者のために、非行非善なり。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
行者のためには非行非善なりと云々
【第10条原文】
「念仏には無義をもって義とす。
不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき
【私感】
全部同じ事です。
「親の追善供養のために念仏したことはない」も爆弾発言ですね。
これを「親に感謝することがない」と捉えると間違えます。
「自分の力で励む善」ではないので、自分の行を「回向」することはできないということです。
どこまでも「阿彌陀佛から与えられた念仏」です。
妙好人という市井の篤信者の中に「才市」という人がいます。
その人が
わしが念仏となえるじゃない 念仏の方から わしの心にあたる念仏 南無阿弥陀仏
と言っているのが印象的です。
「念仏の方からわしの心に当たる」
頭で理解せず、心で理解しているから、こういう言葉も出てきます。
つまり真宗の信者にとって念仏は「(往生のための)行」ではないのです。
あるとき、法然上人に「念仏をしていても眠たくなる。どうすればいいか」と訊ねたと、
徒然草に書いてあります。
その答は「目が覚めている間だけ念仏すればいい」でした。
徒然草第39段〜法然の言葉〜(2011年09月20日00:41)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1776791336&owner_id=5416651
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