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2019年12月26日17:20

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死者の書  折口信夫 12

十八

当麻(たぎま)の邑(むら)は、此頃、一本の草、一塊(ひとくれ)の石すら、光りを持つほど、賑(にぎわ)い充(み)ちて居る。
当麻真人家(たぎまのまひとけ)の氏神当麻彦の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏上の拝礼があった。故上総守老真人(かずさのかみおゆのまひと)以来、暫らく絶えて居たことである。
其上、もうに二三日に迫った八月(はつき)の朔日(ついたち)には、奈良の宮から、勅使が来向われる筈になって居た。当麻氏から出られた大夫人(だいふじん)のお生み申された宮の御代に、あらたまることになったからである。廬堂の中は、前よりは更に狭くなって居た。郎女が、奈良の御館(みたち)からとり寄せた高機(たかはた)を、設(た)てたからである。機織りに長(た)けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬(おさ)や梭(ひ)の扱い方を、姫はすぐに会得した。機に上って日ねもす、時には終夜(よもすがら)織って見るけれど、蓮の糸は、すぐに円(つぶ)になったり、断(き)れたりした。其でも、倦(う)まずにさえ織って居れば、何時か織りあがるもの、と信じている様に、脇目からは見えた。
乳母(ちおも)は、人に見せた事のない憂わしげな顔を、此頃よくしている。
何しろ、唐土(もろこし)でも、天竺(てんじく)から渡った物より手に入らぬ、という藕糸織(はすいとお)りを遊ばそう、と言うのじゃもののう。
話相手にもしなかった若い者たちに、時々うっかりと、こんな事を、言う様になった。
こう糸が無駄になっては。
今の間にどしどし績(う)んで置かいでは――。
乳母の語に、若人たちは又、広々として野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだった。そうして、女たちの刈りとった蓮積み車が、廬(いおり)に戻って来ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、当麻の邑(むら)の騒ぎの噂である。
郎女(いらつめ)様のお従兄恵美の若子(わくご)さまのお母(はら)様も、当麻真人のお出じゃげな――。
恵美の御館(みたち)の叔父君の世界、見るような世になった。
兄御を、帥(そつ)の殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあろうのう――。
あて人に仕えて居ても、女はうっかりすると、人の評判に時を移した。
やめい やめい。お耳ざわりぞ。
しまいには、乳母が叱りに出た。だが、身狭刀自(むさのとじ)自身のうちにも、もだもだと咽喉(のど)につまった物のある感じが、残らずには居なかった。そうして、そんなことにかまけることなく、何の訣(わけ)やら知れぬが、一心に糸を績み、機を織って居る育ての姫が、いとおしくてたまらぬのであった。
昼の中多く出た虻(あぶ)は、潜んでしまったが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して来る。日中の興奮で、皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す灯の明りを避けて、隅の物陰に、深い鼾(いびき)を立てはじめた。
郎女は、断(き)れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだ梭(ひ)を放そうともせぬ。
だが、此頃の姫の心は、満ち足ろうて居た。あれほど、夜々(よるよる)見て居た俤人(おもかげびと)の姿も見ずに、安らかな気持ちが続いているのである。
「此機を織りあげて、はようあの素肌のお身を、掩(おお)うてあげたい。」
其ばかり考えて居る。世の中になし遂げられぬもののあると言うことを、あて人は知らぬのであった。
ちょう ちょう はた はた。
はた はた ちょう……。
筬(おさ)を流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。引いても扱(こ)いても通らぬ。筬の歯が幾枚も毀(こぼ)れて、糸筋の上にかかって居るのが見える。
郎女は、溜(た)め息(いき)をついた。乳母に問うても、知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動かすことはえすまい。
どうしたら、よいのだろう。
姫ははじめて、顔へ偏ってかかって来る髪のうるささを感じた。筬の櫛目(くしめ)を覗いて見た。梭もはたいて見た。
ああ、何時になったら、したてた衣(ころも)を、お肌へふくよかにお貸し申すことが出来よう。
もう外の叢(くさむら)で鳴き出した、蟋蟀(こおろぎ)の声を、瞬間思い浮べて居た。
どれ、およこし遊ばされ。こう直せば、動かぬこともおざるまい――。
どうやら聞いた気のする声が、機の外にした。
あて人の姫は、何処から来た人とも疑わなかった。唯、そうした好意ある人を、予想して居た時なので、
見てたもれ。
機をおりた。
女は尼であった。髪を切って尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたことはあったが、剃髪(ていはつ)した尼には会うたことのない姫であった。
はた はた ちょう ちょう
元の通りの音が、整って出て来た。
蓮の糸は、こう言う風では、織れるものではおざりませぬ。もっと寄って御覧(ごろう)じ――。これこう――おわかりかえ。
当麻語部姥(うば)の声である。だが、そんなことは、郎女の心には、間題でもなかった。
おわかりなさるかえ。これこう――。
姫の心は、こだまの如く聡(さと)くなって居た。此才伎(てわざ)の経緯(ゆきたて)は、すぐ呑み込まれた。
織ってごろうじませ。
姫が、高機に代って入ると、尼は機陰に身を倚(よ)せて立つ。
はた はた ゆら ゆら。
音までが、変って澄み上った。
女鳥(めとり)の わがおおきみの織(おろ)す機。誰(た)が為(た)ねろかも――、御存じ及びでおざりましょうのう。昔、こう、機殿の※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)(まど)からのぞきこうで、問われたお方様がおざりましたっけ。
――その時、その貴い女性(にょしょう)がの、
たか行くや隼別(はやぶさわけ)の御被服料(みおすいがね)――そうお答えなされたとのう。
この中(じゅう)申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でもおざりました。天若日子(あめわかひこ)でもおざりました。天(てん)の日(ひ)に矢を射かける――。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。截(き)りはたり、ちょうちょう。それ――、早く織らねば、やがて、岩牀(いわどこ)の凍る冷い冬がまいりますがよ――。
郎女は、ふっと覚めた。あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。だが、梭をとり直して見ると、
はた はた ゆら ゆら。ゆら はたた。
美しい織物が、筬の目から迸(ほとばし)る。
はた はた ゆら ゆら。
思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つの閾(しきみ)を越えたのである。

十九

望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反(ひとむら)の上帛(はた)を、夜の更けるのも忘れて、見讃(みはや)して居た。
この月の光りを受けた美しさ。
※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)(かとり)のようで、韓織(からおり)のようで、――やっぱり、此より外にはない、清らかな上帛じゃ。
乳母も、遠くなった眼をすがめながら、譬(たと)えようのない美しさと、ずっしりとした手あたりを、若い者のように楽しんでは、撫でまわして居た。
二度目の機は、初めの日数の半(なから)であがった。三反の上帛を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて来た。五反目を織りきると、機に上ることをやめた。そうして、日も夜も、針を動した。
長月の空は、三日の月のほのめき出したのさえ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思うだけでも、堪えられなかった。
裁ち縫うわざは、あて人の子のする事ではなかった。唯、他人(ひと)の手に触れさせたくない。こう思う心から、解いては縫い、縫うてはほどきした。現(うつ)し世(よ)の幾人にも当る大きなお身に合う衣を、縫うすべを知らなかった。せっかく織り上げた上帛を、裁ったり截ったり、段々布は狭くなって行く。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかった。何を縫うものとも考え当らぬ囁(ささや)きに、日を暮すばかりである。
其上、日に増し、外は冷えて来る。人々は一日も早く、奈良の御館に帰ることを願うばかりになった。郎女は、暖かい昼、薄暗い廬の中で、うっとりとしていた。その時、語部(かたり)の尼が歩み寄って来るのを、又まざまざと見たのである。
何を思案遊ばす。壁代(かべしろ)の様に縦横に裁ちついで、其まま身に纏(まと)うようになさる外はおざらぬ。それ、ここに紐(ひも)をつけて、肩の上でくくりあわせれば、昼は衣になりましょう。紐を解き敷いて、折り返し被(かぶ)れは、やがて夜の衾(ふすま)にもなりまする。天竺の行人(ぎょうにん)たちの著(き)る僧伽梨(そうぎゃり)と言うのが、其でおざりまする。早くお縫いあそばされ。
だが、気がつくと、やはり昼の夢を見て居たのだ。裁ちきった布を綴り合せて縫い初めると、二日もたたぬ間に、大きな一面の綴りの上帛(はた)が出来あがった。
郎女(いらつめ)様は、月ごろかかって、唯の壁代(かべしろ)をお織りなされた。
あったら 惜しやの。
はりが抜けたように、若人たちが声を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の営みを考えて居た。
「これでは、あまり寒々としている。殯(もがり)の庭の棺(ひつぎ)にかけるひしきもの―喪氈―、とやら言うものと、見た目にかわりはあるまい。」

二十

もう、世の人の心は賢(さか)しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信(しん)をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑い咄(ばなし)のように言われるような世の中になって居た。当麻語部(たぎまのかたりべ)の嫗(おむな)なども、都の上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)の、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽(たちまち)違った氏の語部なるが故に、追い退(の)けられたのであった。
そう言う聴きてを見あてた刹那(せつな)に、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又廬堂(いおりどう)に近い木立ちの陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向ってする、ひとり語りは続けられて居た。
今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再己(おの)が世が来た、とほくそ笑みをした――が、氏の神祭りにも、語部を請(しょう)じて、神語りを語らそうともせられなかった。ひきついであった、勅使の参向の節にも、呼び出されて、当麻氏の古物語りを奏上せい、と仰せられるか、と思うて居た予期(あらまし)も、空頼みになった。
此はもう、自身や、自身の祖(おや)たちが、長く覚え伝え、語りついで来た間、こうした事に行き逢おうとは、考えもつかなかった時代(ときよ)が来たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放(やら)われている気がして、唯驚くばかりであった。娯(たの)しみを失いきった語部の古婆は、もう飯を喰べても、味は失うてしまった。水を飲んでも、口をついて、独り語りが囈語(うわごと)のように出るばかりになった。
秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥(うば)は、知る限りの物語りを、喋(しゃべ)りつづけて死のう、と言う腹をきめた。そうして、郎女の耳に近い処をところをと覓(もと)めて、さまよい歩くようになった。

郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色(えのぐ)の数々を思い出した。其を思いついたのは、夜であった。今から、横佩墻内(よこはきかきつ)へ馳(か)けつけて、彩色を持って還(かえ)れ、と命ぜられたのは、女の中に、唯一人残って居た長老(おとな)である。ついしか、こんな言いつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちは復(また)、何か事の起るのではないか、とおどおどして居た。だが、身狭乳母(むさのちおも)の計いで、長老は渋々、夜道を、奈良へ向って急いだ。
あくる日、絵具の届けられた時、姫の声ははなやいで、興奮(はや)りかに響いた。
女たちの噂した所の、袈裟(けさ)で謂(い)えば、五十条の大衣(だいえ)とも言うべき、藕糸(ぐうし)の上帛(はた)の上に、郎女の目はじっとすわって居た。やがて筆は、愉(たの)しげにとり上げられた。線描(すみが)きなしに、うちつけに絵具を塗り進めた。美しい彩画(たみえ)は、七色八色の虹のように、郎女の目の前に、輝き増して行く。
姫は、緑青を盛って、層々うち重る楼閣伽藍(がらん)の屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫(めかがや)くばかり、朱で彩(た)みあげられた。むらむらと靉(たなび)くものは、紺青の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、画きおろされた、雲の上には金泥(こんでい)の光り輝く靄(もや)が、漂いはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のままに動いて居る。やがて金色(こんじき)の雲気は、次第に凝り成して、照り充ちた色身(しきしん)――現(うつ)し世(よ)の人とも見えぬ尊い姿が顕(あらわ)れた。
郎女は唯、先の日見た、万法蔵院の夕(ゆうべ)の幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であった。だが、彩画の上に湧き上った宮殿(くうでん)楼閣は、兜率天宮(とそつてんぐう)のたたずまいさながらであった。しかも、其四十九重の宝宮の内院に現れた尊者の相好(そうごう)は、あの夕、近々と目に見た俤(おもかげ)びとの姿を、心に覓(と)めて描き顕したばかりであった。
刀自(とじ)・若人たちは、一刻一刻、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞に、唯見呆けて居るばかりであった。
郎女が、筆をおいて、にこやかな笑(えま)いを、円(まろ)く跪坐(ついい)る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際(きわ)に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣(わけ)はなかった。
姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様(えよう)は、そのまま曼陀羅(まんだら)の相(すがた)を具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻(まも)る画面には、見る見る、数千地涌(すせんじゆ)の菩薩(ぼさつ)の姿が、浮き出て来た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐいかも知れぬ。




底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第廿四巻」中央公論社
   1967(昭和42)年10月25日発行
初出:「日本評論 第十四巻第一号〜三号」
   1939(昭和14)年1月〜3月
初収単行本:「死者の書」青磁社
   1943(昭和18)年9月

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