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2019年12月26日17:16

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死者の書  折口信夫 9

十二

怒りの滝のようになった額田部子古は、奈良に還(かえ)って、公に訴えると言い出した。大和国にも断って、寺の奴ばらを追い払って貰うとまで、いきまいた。大師を頭(かしら)に、横佩家に深い筋合いのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願わずには置かぬ、と凄い顔をして、住侶(じゅうりょ)たちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢(けが)し、結界まで破られたからは、直にお還りになるようには計われぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖(あがな)いはして貰わねばならぬ、と寺方も、言い分はひっこめなかった。
理分に非分にも、これまで、南家の権勢でつき通してきた家長老(おとな)等にも、寺方の扱いと言うものの、世間どおりにはいかぬ事が訣(わか)って居た。乳母に相談かけても、一代そう言う世事に与った事のない此人は、そんな問題には、詮(かい)ない唯の女性(にょしょう)に過ぎなかった。
先刻(さっき)からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
其は、寺方が、理分でおざるがや。お随(おしたが)いなされねばならぬ。
其を聞くと、身狭乳母は、激しく、田舎語部の老女を叱りつけた。男たちに言いつけて、畳にしがみつき、柱にかき縋(すが)る古婆(ふるばば)を掴(つか)み出させた。そうした威高さは、さすがに自(おのずか)ら備っていた。
何事も、この身などの考えではきめられぬ。帥(そつ)の殿(との)に承ろうにも、国遠し。まず姑(しば)し、郎女様のお心による外はないもの、と思いまする。
其より外には、方(ほう)もつかなかった。奈良の御館(みたち)の人々と言っても、多くは、此人たちの意見を聴いてする人々である。よい思案を、考えつきそうなものも居ない。難波へは、直様、使いを立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考えに任せよう、と言うことになった。
郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤(もっとも)、寺方でも、候人(さぶらいびと)や、奴隷(やっこ)の人数を揃えて、妨げましょう。併し、御館のお勢いには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考えを承らずには、何とも計いかねまする。御思案お洩(もら)し遊ばされ。
謂(い)わば、難題である。あて人の娘御に、出来よう筈のない返答である。乳母(おも)も、子古も、凡(およそ)は無駄な伺いだ、と思っては居た。ところが、郎女の答えは、木魂返(こだまがえ)しの様に、躊躇(ためら)うことなしにあった。其上、此ほどはっきりとした答えはない、と思われる位、凛(りん)としていた。其が、すべての者の不満を圧倒した。
姫の咎(とが)は、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。
郎女の声・詞(ことば)を聞かぬ日はない身狭乳母ではあった。だがついしか此ほどに、頭の髄まで沁(し)み入るような、さえざえとした語を聞いたことのない、乳母(ちおも)だった。
寺方の言い分に譲るなど言う問題は、小い事であった。此爽(さわ)やかな育ての君の判断力と、惑いなき詞に感じてしまった。ただ、涙。こうまで賢(さか)しい魂を窺(うかが)い得て、頬に伝うものを拭うことも出来なかった。子古にも、郎女の詞を伝達した。そうして、自分のまだ曾(かつ)て覚えたことのない感激を、力深くつけ添えて聞かした。
ともあれ此上は、難波津(なにわづ)へ。
難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した。今日か明日、新羅(しらぎ)問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれることになっているかも知れぬ。手遅れしては一大事である。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。
万法蔵院に、唯一つ飼って居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に向けて、庭から匍伏(ほふく)した。
子古の発った後は、又のどかな春の日に戻った。悠々(うらうら)と照り暮す山々を見せましょう、と乳母が言い出した。木立ち・山陰から盗み見する者のないように、家人らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘い出した。
暴風雨(あらし)の夜、添下(そうのしも)・広瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎(かげろう)も立たず、唯おどんで見えた。昨日跳めた野も、斜になった日を受けて、物の影が細長く靡(なび)いて居た。青垣の様にとりまく山々も、愈々(いよいよ)遠く裾を曳(ひ)いて見えた。早い菫(すみれ)―げんげ―が、もうちらほら咲いている。遠く見ると、その赤々とした紫が一続きに見えて、夕焼け雲がおりて居るように思われる。足もとに一本、おなじ花の咲いているのを見つけた郎女(いらつめ)は、膝を叢(くさむら)について、じっと眺め入った。
これはえ――。
すみれ、と申すとのことで御座ります。
こう言う風に、物を知らせるのが、あて人に仕える人たちの、為来(しきた)りになって居た。
蓮(はちす)の花に似ていながら、もっと細やかな、――絵にある仏の花を見るような――。
ひとり言しながら、じっと見ているうちに、花は、広い萼(うてな)の上に乗った仏の前の大きな花になって来る。其がまた、ふっと、目の前のささやかな花に戻る。
夕風が冷(ひや)ついて参ります。内へと遊ばされ。
乳母が言った。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
近々と、谷を隔てて、端山の林や、崖(なぎ)の幾重も重った上に、二上の男岳(おのかみ)の頂が、赤い日に染って立っている。
今日は、又あまりに静かな夕(ゆうべ)である。山ものどかに、夕雲の中に這入(はい)って行こうとしている。
もうしもうし。もう外に居る時では御座りません。

十三

「朝目よく」うるわしい兆(しるし)を見た昨日は、郎女(いらつめ)にとって、知らぬ経験を、後から後から展(ひら)いて行ったことであった。ただ人(びと)の考えから言えば、苦しい現実のひき続きではあったのだが、姫にとっては、心驚く事ばかりであった。一つ一つ変った事に逢う度に、「何も知らぬ身であった」と姫の心の底の声が揚った。そうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい気が、一ぱいであった。今日も其続きを、くわしく見た。
なごり惜しく過ぎ行く現(うつ)し世(よ)のさまざま。郎女は、今目を閉じて、心に一つ一つ収めこもうとして居る。ほのかに通り行き、将(はた)著しくはためき過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬(いおり)のまわりは、すっかり手入れがせられて居た。灯台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々(こうこう)と、油火(あぶらび)が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処には、すさまじいと言う者があって、どこかへ搬(はこ)んで行かれた。其よりも、郎女の為には、帳台の設備(しつら)われている安らかさ。今宵は、夜も、暖かであった。帷帳(とばり)を周(めぐ)らした中は、ほの暗かった。其でも、山の鬼神(もの)、野の魍魎(もの)を避ける為の灯の渦が、ぼうと梁(はり)に張り渡した頂板(つしいた)に揺めいて居るのが、たのもしい気を深めた。帳台のまわりには、乳母や、若人が寝たらしい。其ももう、一時(ひととき)も前の事で、皆すやすやと寝息の音を立てて居る。姫の心は、今は軽かった。たとえば、俤(おもかげ)に見たお人には逢わずとも、その俤を見た山の麓(ふもと)に来て、こう安らかに身を横えて居る。
灯台の明りは、郎女の額の上に、高く朧(おぼ)ろに見える光りの輪を作って居た。月のように円くて、幾つも上へ上へと、月輪(がちりん)の重っている如くも見えた。其が、隙間風の為であろう。時々薄れて行くと、一つの月になった。ぽうっと明り立つと、幾重にも隈(くま)の畳まった、大きな円(まど)かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やっと、遅い月が出たことであろう。
物の音。――つた つたと来て、ふうと佇(た)ち止るけはい。耳をすますと、元の寂(しず)かな夜に、――激(たぎ)ち降(くだ)る谷のとよみ。
つた つた つた。
又、ひたと止(や)む。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音(あしおと)だろう。
つた。
郎女は刹那(せつな)、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦(おのの)きが出て来た。
天若御子(あめわかみこ)――。
ようべ、当麻語部嫗(たぎまのかたりのおむな)の聞した物語り。ああ其お方の、来て窺(うかが)う夜なのか。
――青馬の 耳面刀自(みゝものとじ)。
刀自もがも。女弟(おと)もがも。
その子の はらからの子の
処女子(おとめご)の 一人
一人だに わが配偶(つま)に来よ
まことに畏(おそろ)しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧(おさ)えられるような畏(こわ)さを知った。あああの歌が、胸に生き蘇(かえ)って来る。忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞(ことば)から、胸にとおって響く。乳房から迸(ほとばし)り出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様に皺(しわ)だむ。
ついと、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑(つぶ)った。だが――瞬間睫(まつげ)の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴(つか)んだ片手の白く光る指。
なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇を洩(も)れた詞。この時、姫の心は、急に寛(くつろ)ぎを感じた。さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直(すぐ)に動顛(どうてん)した心を、とり直すことが出来た。
のうのう。あみだほとけ……。
今一度口に出して見た。おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経の文(もん)が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかった。父君は家の内に道場を構えて居たが、簾(すだれ)越しにも聴聞は許されなかった。御経(おんきょう)の文(もん)は手写しても、固(もと)より意趣は、よく訣(わか)らなかった。だが、処々には、かつがつ気持ちの汲みとれる所があったのであろう。さすがに、まさかこんな時、突嗟(とっさ)に口に上ろう、とは思うて居なかった。
白い骨、譬(たと)えば白玉の並んだ骨の指、其が何時までも目に残って居た。帷帳は、元のままに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでいるような気がする。
悲しさとも、懐しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行った。山の端に立った俤びとは、白々(しろじろ)とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のように、からびて寂しく、目にうつる。

長い渚を歩いて行く。郎女の髪は、左から右から吹く風に、あちらへ靡(なび)き、こちらへ乱れする。浪(なみ)はただ、足もとに寄せている。渚と思うたのは、海の中道(なかみち)である。浪は、両方から打って来る。どこまでもどこまでも、海の道は続く。郎女の足は、砂を踏んでいる。その砂すらも、段々水に掩(おお)われて来る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と気がつく。姫は身を屈(こご)めて、白玉を拾う。拾うても拾うても、玉は皆、掌(たなそこ)に置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾い続ける。玉は水隠(みがく)れて、見えぬ様になって行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬(すく)おうとする。掬(むす)んでも掬んでも、水のように、手股(たなまた)から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶつぶ並んで見える。忙(あわただ)しく拾おうとする姫の俯(うつむ)いた背を越して、流れる浪が、泡立ってとおる。
姫は――やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。そう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆(たお)される。浪に漂う身……衣もなく、裳(も)もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現(うつ)し身(み)。
ずんずんと、さがって行く。水底(みなぞこ)に水漬(みづ)く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹(ひともと)の白い珊瑚(さんご)の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生い靡(なび)くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのままに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほっと息をついた。
まるで、潜(かず)きする海女が二十尋(はたひろ)・三十尋(みそひろ)の水底から浮び上って嘯(うそぶ)く様に、深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
ああ夢だった。当麻(たぎま)まで来た夜道の記憶は、まざまざと残って居るが、こんな苦しさは覚えなかった。だがやっぱり、おとといの道の続きを辿(たど)って居るらしい気がする。
水の面からさし入る月の光り、そう思うた時は、ずんずん海面に浮き出て来た。そうして悉(ことごと)く、跡形もない夢だった。唯、姫の仰ぎ寝る頂板(つしいた)に、ああ、水にさし入った月。そこに以前のままに、幾つも暈(かさ)の畳まった月輪の形が、揺めいて居る。
のうのう 阿弥陀(あみだ)ほとけ……。
再、口に出た。光りの暈は、今は愈々(いよいよ)明りを増して、輪と輪との境の隈々(くまぐま)しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝り初めて、明るい光明の中に、胸・肩・頭・髪、はっきりと形を現(げん)じた。白々と袒(ぬ)いだ美しい肌。浄(きよ)く伏せたまみが、郎女(いらつめ)の寝姿を見おろして居る。かの日の夕(ゆうべ)、山の端に見た俤(おもかげ)びと――。乳のあたりと、膝元とにある手――その指(および)、白玉の指。姫は、起き直った。天井の光りの輪が、元のままに、ただ仄(ほの)かに、事もなく揺れて居た。


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