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2019年08月23日11:56

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【「21世紀世界のビジョンと日本の貢献―普遍化と地域性―」】>西ヨーロッパの諸国は、主権国民国家となった本国と、それとは異なる基準で統治される植民地から構成される帝国となる。>>

>この政治体制には、植民地となった地域の人々の意向(地域性)は、必ずしも反映されなかった。それ以前から存在したハプスブルグ、オスマン、清のような帝国は、この主権国民国家+植民地という新しい国家システムにうまく対応できずに解体してしまう。>



(3)続いて、羽田東京大学教授から、
「21世紀世界のビジョンと日本の貢献―普遍化と地域性―」というテーマの下、概要以下の発表があった。
私も歴史学者なので、まず歴史認識と歴史学の関係について簡単に述べ、その後で本日の主たる議題である21世紀のビジョンについて論じたい。一般に過去を認識することを歴史認識、歴史観と呼ぶが、これが形成されるための要素は数多くある。まず、歴史学の研究成果である。それに加えて人や集団の経験や信念、価値観、教育、身近な人の語り、小説、テレビなど、様々なものが要素として挙げられる。これらが集まり組み合わさって歴史認識が形成される。歴史学の研究成果だけで歴史認識が形成されるのではないことは、いま山内委員がおっしゃったとおりであるが、そのことは例えばごく身近な例として、幕末史や日露戦争に対する司馬遼太郎の小説や、ローマ帝国史に対する塩野七生の小説の影響を想起すればすぐにおわかりいただけると思う。当然と言えば当然だが、歴史認識と歴史学の研究成果は直ちに等号(イコール)では結びつかない。
といっても歴史学の研究成果は人間の過去を認識し理解するにあたり、信頼に足る重要な手段であると考えられており、歴史認識を形成する際の有力な手がかりの一つであることは間違いない。ただし、歴史学は過去そのものを再現できるわけではない。過去を見る目は時代とともに変わる。また、歴史学者自身が個人の考えや立場を有しており、それに加えて叙述を行う言語の違いなどによって、同じ問題に対し様々な見解があり得る。絶対普遍の歴史認識はない。このことは歴史学の研究成果としての世界史の理解についても言える。これまでは、主として欧米の歴史学者が作りだした基本的な理解、これは今日ではしばしばヨーロッパ中心史観として批判されるが、この理解をベースに各国の歴史学者がそれぞれの国において各国語で議論を行っているというのが実情である。世界史は多くの国で自国中心的に理解されており、国ごとに世界史の見方、理解の仕方は、時に微妙に、時に大きく異なっている。その原因の一つは、歴史学者が自らの立場性というものを十分意識していないというところにある。どういう立場で誰に向かって語っているのかということがしばしば不明瞭なまま研究業績が発表される点が問題であると個人的には考えている。

現代世界を構成する基本単位である主権国家は一種の法人である。その意味で主権国家自身が独自の歴史認識を持ち得るだろう。そして、政府要人や国会議員、官僚などの公人による過去についての発言が、一般に主権国家の歴史認識と理解される。現代世界における主権国家の歴史認識は、一定の枠組みの中にあることが要請されると私は考えている。個人や集団レベルの歴史認識は、先ほど申し上げたとおり多様であってよいが、主権国家の歴史認識は別である。なぜ主権国家の歴史認識が一定の枠組みの中になければならないのかということについて次にご説明するが、主権国家の歴史認識は極めて政治的なものであるということを強調しておきたい。これは政治家の仕事の領域に属することである。歴史学者は、政治家が考え判断するための材料を提供することはできる。しかし、最終的には政治家がその時々に適切な歴史認識を示す、リーダーシップを見せることが重要であると考える。

次に、第2部の20世紀世界の秩序・構造と歴史認識である。近現代の世界史をどう捉えるか、この点については北岡委員や白石委員をはじめ多くの方が既にこの懇談会で意見を述べられている。大筋において私は諸先生方のご意見に賛成であるため、これから述べることは屋上屋を架すことになるかもしれないが、ここで私の見方を披露し、そこから主権国家の歴史認識の枠組みについて論じることとしたい。


グローバルな視点から近現代史の流れを巨視的にまとめると、それは普遍化と地域性のせめぎあいと見ることができる。19世紀になり西ヨーロッパ諸国間の国際関係のルールが急速に世界規模に拡大する。これは相互不可侵、互恵的な条約による主権国家間の対等な外交関係を基本としていた。ただし、当初は国の文明度、これは、文明、未開、野蛮というレベルのことであるが、文明度が意味をもち、全ての国が対等と見なされたわけではなかった。

その一つの例は、日本の対欧米不平等条約であった。この過程で、イギリス、フランス、ドイツを始めとする西ヨーロッパの諸国は、主権国民国家となった本国と、それとは異なる基準で統治される植民地から構成される帝国となる。この政治体制には、植民地となった地域の人々の意向(地域性)は、必ずしも反映されなかった。それ以前から存在したハプスブルグ、オスマン、清のような帝国は、この主権国民国家+植民地という新しい国家システムにうまく対応できずに解体してしまう。こうして20世紀前半までにラテンアメリカをのぞく世界の多くの場所は、西ヨーロッパ諸国にアメリカ、ロシア、日本を加えた帝国と、それらによって植民地化された地域に二分された。これを第一次普遍化と呼ぶことができる。現代の目から見ると力による普遍化でしかないが、当時は「文明化の使命」という理念があり、これに基づいて普遍化が行われたと考えられる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーーー
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/21c_koso/dai6/gijiyousi.pdf
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