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2024年05月24日10:35

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「闘将」星野仙一が、すい臓がんでも抗がん剤を拒んだ「涙の理由」>

<父・仙蔵はがんのため他界しており、父親の顔を知らずに育つ[5]。>


2024.05.22
# 野球

「闘将」星野仙一が、すい臓がんでも抗がん剤を拒んだ「涙の理由」

週刊現代
講談社 /月曜・金曜発売

鷲崎文彦
「わしを助ける気があるんか?」
中日、阪神、楽天の監督として歴代11位となる通算1181勝を手にし、13年には楽天に球団創設初のリーグ優勝と日本一という歴史も刻んだ星野仙一さん。そのラストシーンで前日に先発完投していた田中将大をマウンドに上げた采配は今も野球ファンの記憶に鮮やかだ。

楽天の日本一秘話、そして、教え子たちに戦う姿勢を植えつけた闘将らしい壮絶な最期を、懐刀だった早川実氏が明かす。

前回記事『「ユニフォームってなにかわかるか? 戦闘服だからな」...最も近くにいた男が明かす、「燃える男」星野仙一がただ一度だけ土下座した「衝撃の真相」』では、星野さんの腹心も目を疑った衝撃場面や立浪和義現監督に受け継がれた教えなどについて詳しく紹介しています。

写真 GettyImages写真 GettyImages
西濃運輸から中日に入団した早川氏の現役生活は4年と短かったが、引退後も裏方として球団に残り、星野さんが監督に就任した87年、1軍コーチ補佐兼監督付広報に就いた。以来、投手コーチやスカウト、監督付広報として長く星野さんに仕えた。

「星野さんが2度目の中日監督を退かれた後も私は球団に残っていましたが、星野さんが楽天監督1年目の秋、電話がかかってきて『わしを助ける気があるんか』と言われ、中日を退団して楽天のスカウトになりました。

スカウト業務があるので星野さんに会うのは月に1回、報告に行ったときくらいでしたが、苦慮していたのは選手たちに負け癖がついていたこと。『試合に負けても悔しさが表に出てこない。弱いチームの典型だ。そこを変えないといかん』と話されていましたね」



星野さんは選手の意識を根底から変えていった。1年目の5位に続き、2年目もBクラスの4位に終わったが、勝率は5割を守り、首位とのゲーム差も23.5から7.5へと縮まった。

「星野さんがよく言っていたのは『成績がよくなるまでが首脳陣の力だ』ということ。チームが勝てるようになれば、こちらがあれこれ言う前に選手が自発的に動くようになるんです」

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24勝無敗のマー君への助言はあったのか?

「田中(将大)がチョロチョロし出した」
13年は早川氏が星野さんに自信を持って推した則本昂大が15勝を挙げるなど、田中と2本柱となる大活躍を見せ、ナインの負け癖は払しょくされていった。

「カードの頭に田中と則本が行くので勝ち越せるようになる。すると選手たちも、それが当たり前のような感覚になってきて、意識も変わっていったんじゃないですかね」

7月4日に首位に並ぶと、以降、その座を譲ることなく9月26日、楽天は創設9年目で初めてパ・リーグのペナントを手にした。田中は24勝0敗1セーブという金字塔を打ち立てた。

「WBCでの疲労も考慮されて開幕投手は則本になりましたが、24勝なんてすごいことです。シーズン中、星野さんが田中になにか特別にアドバイスしたとかは聞いていませんし、なかったと思います。星野さんもチームの大エースとして認めていましたから」

リーグ優勝が決まる最終回のマウンドに田中をリリーフ登板させて胴上げ投手にしたのも、その表れだ。だが、日本シリーズでのそれは違ったようだ。



「前日の試合に先発して9回を投げ切っていたので星野さんも『使うつもりはまったくなかったし、ベンチからも外すつもりだった』と話していました。でも、試合前にピッチングコーチから田中が『ベンチに入りたい。投げるつもりです』と言っていると伝えられ、試合中も『田中が自分の近くをチョロチョロし出した』らしいです。

田中は前日の雪辱もありますし、エースとして、ここぞというふうに思ったんでしょう。星野さんも田中のメジャー移籍の話題も出ていたから、日本で投げる最後となる可能性があることも考えたのかもしれません。人情を抑えられない監督でしたからね」

田中のメジャー挑戦に関して、球団内にはポスティングシステムが改められて譲渡金の上限が2000万ドルという見合わない額になったこともあって容認すべきではないという意見もあった。

しかし、翌年の戦いが苦しくなるのは目に見えていても星野さんは送り出す選択肢しか持ち合わせていなかったそうだ。

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星野さんが見せた異変
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パーティーではなく、生前葬
「それ以前から田中の志を理解していて『引き留めてどうのというのは俺の頭の中には端からないぞ。最後にこれだけのことをやって行くんだ。止める理由なんてない。最大の応援をしてあげようや』と。

田中は野村克也さんにいろいろな野球を教えてもらったと思います。でも、それとはまた違った、気持ちを表に出して、理屈だけじゃない野球を星野さんから学んだと思います」

恩師の後押しを受けた田中は名門・ヤンキースでもエースとして躍動。17年11月に東京で開かれた星野さんの「野球殿堂入りを祝う会」に駆けつけている。



「野球界はもちろん、政財界や芸能界からもたくさんの方が来てくれました。ただ、それまでのパーティーとは違ったところがありました。普段は私が『この人が来ていますよ』と伝えても『おう』と返すくらい。でも、このときは『ちょっと呼んでくれ』と控室に招き入れて、時間が許す限り話をしたり、一緒に写真を撮っていたんです。今、思えば、あれは生前葬だったんでしょうね」

周囲にはひた隠しにしてきたが、星野さんは前年の16年7月にすい臓がんを患っていることが判明していた。そのことは早川氏や甥である阪神の筒井壮コーチですら聞かされていなかった。

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薬を飲ませようとする娘に対して…

闘将としての誇り
「知っていたのは2人の娘さんと、医者をしているその旦那さんくらいだったでしょうね。殿堂入りを祝う会は東京で行った3日後の12月1日に大阪でも開いたんです。でも、そのときは壇上に最後まで立っていられなかった。途中で降りてきて、最後のセレモニーのときにまた上がったんですが、私たちも病気のことは知らされていなかったので『無理しないでくださいよ』と言うしかなかった。

亡くなるのは、そのひと月と3日後の翌年1月4日。まさか、そんなにすぐ亡くなるなんて思いもしませんでした。でも祝う会を間隔を詰めて行ったのは、星野さんが自分でも時間があまりないことを覚悟していたからだったかもしれません」

星野さんは年末にハワイに行くことを恒例としていたが、「今年はちょっと腰が痛くて、飛行機に乗れそうにないわ」と断念。病魔は進行し、心の平静を保つことも難しくなっていたという。



「娘さんがおっしゃっていましたが、星野さんは『飲んだら髪の毛が抜けるやないか』と言って抗がん剤を飲まなかったんです。娘さんが飲んだ方がいいと薬を持っていっても払いのけ、娘さんが食い下がると星野さんの手のひらが顔に飛んできたそうです。闘病のイライラを娘さんにぶつけてしまっていた。

それでも弱音を吐くことはなく、薬に頼らず病気と最後まで闘った。髪の毛も真っ白になっていたのに、前のところをちょっとだけ残して、あとは黒く染めて、容姿が変わらないようにしていたそうです」

なぜ、星野さんは病気の苦しみよりもその点にこだわったのか。

「いつ取材に来られても出られるような姿でいたかったそうです。弱みは一切、見せない。最期まで星野仙一として生き抜かれたんです」

殿堂入りを祝う会で「ずっと野球と恋愛してきてよかった。もっともっと野球に恋をしたい」とスピーチした闘将は、今も野球界、教え子たちのプレーを優しく見守っていることだろう。

・・・・・

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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ー
https://gendai.media/articles/-/130245?page=4

星野仙一

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星野 仙一

楽天監督時代
(2011年3月9日、阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県児島郡福田村(現:倉敷市)
生年月日 1947年1月22日
没年月日 2018年1月4日(70歳没)
身長
体重 180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1968年 ドラフト1位
初出場 1969年4月13日
最終出場 1982年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
岡山県立倉敷商業高等学校
明治大学
中日ドラゴンズ (1969 - 1982)
監督・コーチ歴
中日ドラゴンズ (1981 - 1982、1987 - 1991、1996 - 2001)
阪神タイガース (2002 - 2003)
日本代表 (2007 - 2008)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2011 - 2014)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2017年
得票率 78.6%(112票中88票)
選出方法 競技者表彰(エキスパート部門)
この表について[表示]

楽天監督時代(2011年8月30日、こまちスタジアムにて)
星野 仙一(ほしの せんいち、1947年〈昭和22年〉1月22日 - 2018年〈平成30年〉1月4日[1])は、日本のプロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、コメンテーター。

岡山県児島郡福田町(1953年、倉敷市と合併)出身[2]。現役選手時代のポジションは投手で、1969年から1982年にかけて中日ドラゴンズで主戦格投手として活躍し、1974年・1982年には中日のセ・リーグ優勝に貢献した。また、1974年には沢村賞に加えてリーグ初となる最多セーブ投手のタイトルを獲得している。

現役引退後は中日・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団で監督を務め、1988年・1999年には中日を、2003年には阪神をそれぞれセ・リーグ優勝させ、2013年には楽天を球団創設後初となるパ・リーグ優勝と日本一に導いた。また、2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務め、4位まで導いた。2014年限りで楽天監督を退任し、2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。

愛称は「燃える男」[3]「闘将」「仙(さん・ちゃん)」など。「仙(さん・ちゃん)」の愛称は、中日入団時から1975年まで同姓の星野秀孝がチームメイトだったことから、その間の自身の名前表記が「星野仙」であったことに由来する[4]。

経歴
プロ入りまで
生誕する直前の1946年12月12日、岡山県にある三菱重工水島(現水島製作所)に勤務していた父・仙蔵はがんのため他界しており、父親の顔を知らずに育つ[5]。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E4%BB%99%E4%B8%80
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