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2019年08月17日06:27

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東亜連盟誌の復刻2

現代歴史学、或いは一般通念においては、石原先生は満州事変、満州建国の首謀者の一人、昭和における大陸侵略の先駆者とされています。しかし石原先生に対する現代歴史学ないし一般通念の評価は、先生の生涯に対する或る時期の、しかも外面だけをとらえた認識にもとづくものです。

石原先生の真実は、先生の全生涯にわたる内的生活と公的な行動を、歴史的現実の展開に関連させて考察するとき、始めて我々の眼前に浮上することでしょう。武田邦太郎先生は石原先生の生涯を、次のような五期に分けて考えることが適当ではないかと言います。

第一期、青年士官のころです。その中心的時期は歩兵第六十五連隊(会津)期からドイツ留学、陸軍大学校教官を経て、関東軍参謀として赴任するまでの、すなわち明治42年(1909)頃から昭和3年(1928)10月まで、およそ20年間です。先生の生誕は明治22年(1889)であるから、20歳頃から39歳までです。

この間に、石原先生は戦争史の法則的研究を通じ、戦争の絶滅、永久平和近しとする総合史観を確立し、一方、先生が神に最も近い存在と確信した兵に、いかにして安心の境地における戦死を可能にさせ得るかという煩悶から、永い思想・信仰の遍歴の末、日蓮教の信仰に到達しています。

先生の戦争史研究は、日蓮教の信仰によって不動の目標を与えられた(『戦争史大観の由来記』および『戦争史大観の説明』参照)。また、日蓮聖人の予言により、永久平和の関門として日本を中心に起こるべき最終戦争です。

最終戦争への準備として不可避の戦争以外では、兵は感激をもって死地につかせることはできないとの信境に達します。後年、先生は主としてこの見地から日中戦争や大東亜戦争の回避に全力を傾注されるのです。第一期は、思想・信仰の基礎が形成された時期です。

第二期、関東軍参謀になってから、歩兵第四連隊長(仙台)、参謀本部作戦課長、同戦争指導課長、同作戦部長を経て、昭和12年(1937)9月、関東軍参謀副長としてふたたび満州へ赴任するまでの約9年間、軍人として全力をあげて活動した時期です。39歳から48歳まで。

満州建国以後、国防に関する先生の努力は、ソ連の南下に対して東亜を防衛し、日本、朝鮮、満州国、中国等を主体として、米欧に対する最終戦争に必勝を期する東亜連盟の結成に注がれました。しかるに現実の日本はソ連に対する防衛を忘れ、石原先生を参謀本部から去らせて、中国侵略にひた走りました。軍人としての先生の活動盛期は、事実上、この時期に始まり、そして終わります。

第三期、関東軍参謀副長に転出してから、舞鶴要塞司令官を経、昭和16年(1941)3月、第十六師団長(京都)を最後に現役を去るまでの約3年半。石原先生の生涯では、おもに東亜連盟運動ないし日蓮教運動に入るための準備期ということができます。48歳から52歳まで。

関東軍参謀副長期には関東軍司令官の満州国内面指導の撤回、満州国の完全独立に力をつくし、京都師団長期には極東ソ連軍に対処するいわゆる「浸透戦法」を開発し、また師団の北満移駐について軍の物心両面にわたる準備に肝胆を砕いた。しかし、このような先生の努力はすべて実を結ばなかったのです。

この時期、現実に意義をもち得たのは、第四期以後に対する準備です。それだけに、精神的活動は白熱的に高揚し、仏教史上に一時期を画する「五五百才二重の信仰」は、多くの評伝に「石原は配所の月を眺める身となった」と記される舞鶴要塞司令官期に啓示されています。東亜連盟運動の最高指導書となった『昭和維新論』『東亜連盟建設要綱』『最終戦争論』『戦争史大観の由来期』『戦争史大観の説明』等もこの時期に出来ました。

第四期、京都師団長を退いて以後、昭和21年(1946)1月、東亜連盟運動が占領軍司令部から解散を命じられるまでの約5年間、52歳から57歳まで。信仰者、平和者、組織運動の指導者としての石原先生の実践的活動が最高潮に達し、かつみごとに結実した時期です。運動の目標は『最終戦争論』にもとづく東亜連盟の結成にありました。

当面は日中戦争、大東亜戦争の早期和平と農村の再建を目指しました。太平洋戦争末期、全国の地方組織は74を数え、約20万人の同志は政権獲得の近いことを確信しえたのであり、先生の生涯における最も重要な一時期をなしています。

昭和20年(1945)9月12日、山形県新庄市に開催された東亜連盟同志会の集会は、同志約1万人を中心に参加者3万人余の大集会となり、永久平和実現に先駆する新日本建設を説かれる石原先生の所説に傾聴し、来年は富士の裾野に同志100万人が集まろうといわれる先生の呼びかけに熱狂呼応しました。

第五期、昭和21年10月、石原先生は山形県遊佐町(当時は高瀬村)西山開拓地に入ります。以後24年(1949)8月の死にいたる、57歳から60歳までの約3年。日蓮教信仰に集う青年男女の団体、精華会(大正9年以後、先生が所属していた国柱会の青年部)を指導し、死後のための著述を残し、後進の教育に精魂を傾けました。

敗戦後からこの時期にかけ、石原先生は『最終戦争論』に重大な修正を加え、最終戦争を回避しつつ永久平和を実現すべき世界の立正安国に向かい、日蓮教の旗じるしを高々とかかげられました。死の前年、昭和23年11月24日、門下有志の求めに応じて撮影された16ミリ『立正安国』は、先生の最後の姿を如実に今日まで伝えています。

石原先生が東亜連盟運動に挺身されたのは、先生の生涯の第四期、現実的活動の最も充実した時期でありました。先生は『東亜連盟入門』に「大陸の同志数百万」と述べておられます。『東亜連盟』誌を読まれる方がたは、このような歴史理解においてこれを繙かれるよう希望します。

年会費の納入のお願い「SNS」
 この度は、新年度号148号に振込用紙を同封しなかったことを心からお詫び申し上げます。石原莞爾平和思想研究会として平成元年から、発行してきた会報誌・「永久平和」も、会員減や会費未納による収入減少のため、一時は終刊せざるを得ない状態になりましたが、すべてを完全ボランティアとして、「緊急カンパ」のご寄付でなんとか凌いでおります。
会員の多くは東亜連盟運動に関わってきた60代でした。そのため社会の第一線は退いたものの、まだまだ血気盛んな錚々たる方々が数多くいらっしゃいました。当会は石原莞爾の名を冠してはおりますが、石原莞爾顕彰会と連絡を密にして、石原莞爾の意を汲んで過去の真実の歴史を未来の子どもたちに引き継いでいくと同時に如何にして民族協和と平和を実現するかに取り組んでまいりました。
その一方で発足後四半世紀が経過し、発足時の植田前会長や会員の多くが逝去されたり、高齢のため活動ができなくなってまいりました。会費を払って会報「永久平和」を購読されている会員が激減しているのが現状です。
そんな中、SNS会員から会報購読の正会員を増やすため懸命に努力しています。また、それに加えて製紙メーカー各社の原燃料ならびに物流費の上昇などがあり、印刷代や送料などの支払いを会費だけでは賄えないのが現状です。
そのため、同志の皆様におかれましては今年度の会費の納入を賜りたく、149号にこのチラシと振込用紙を同封させて頂いた次第でございます。
石原莞爾と東亜連盟の志を後世に継承させるためにも、これからの若者を支援し且つ育成したいと心から願っております。
そのためにも何卒ご浄財を賜ればと存じますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
石原莞爾平和思想研究会 会長 仲條拓躬 


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