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2019年06月03日05:33

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篠山城

1609年(慶長14年)徳川家康は松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。
 これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大阪の豊臣氏を初めとする西国諸大名のおさえとするのが目的とされる。
 篠山盆地中心部の丘陵である篠山を築城地と定め、築城の名手と謳われる藤堂高虎が縄張りを担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助力により、わずか6か月で完成させた。
 城址には堀や石垣、天守台が残っており、2000年(平成12年)には消失した二の丸の大書院が復元された。
 (天守台はあるものの、天守閣は建設されなかった)

さて、篠山城で戦は行われなかったものの、篠山城の築城により廃城となった、標高459mの丹波富士といわれる高城山に築かれた八上城は、丹波最大の古戦場である。
 八上城は天正の初めごろ、戦国武将として丹波、但馬、摂津にかけて40余城、30余の砦を抑えていた波多野氏の居城であった。
応仁の乱後、伯耆波多野家より分かれて、丹波に留まり、朝路山のふもとに「蕪(かぶら)丸」を築いた波多野経基(つねもと)(別名秀長)が最初である。
その子 秀(ひで)範(のり)(別名植通、秀忠)が丹波守護職になり、はじめて山頂に城を築いて高城と号し、秀(ひで)経(つね)(別名晴通、元秀、晴秀)に至って防御を増強した。
 しかし秀経には子がなく、因幡波多野秀行(別名清秀)の子、千勝丸を養子に迎え、元服させたのが、武勇にすぐれたこの八上城主、秀治である。
 八上城は秀経のころ(天文23年ごろ)一時、三好長慶の臣、松永久秀に占拠されたが永禄9年、秀治は義父秀経とともに奪回、秀治の代に至って本丸、二の丸、三の丸、岡田丸を構築し、歴史に残る難攻不落の山城につくり換えている。
 織田信長の「天下統一」が始まった天正3年から同7年にかけて、明智光秀、羽柴秀長らの大軍による丹波攻めが始まり、前後11回にわたる攻撃にも八上城はゆるがなかった。
一族の氷上城主・波多野宗高をはじめ、姻戚関係にある穂壺城主・赤井景遠、三木城主・別所長治、さらには中国の毛利勢らの支援を得て、40余城丹波武士の勇敢・巧妙な軍略と自然の地形をうまく取り入れた軍略的な陣地構成が、織田勢を寄せつけなかったといえる。 
だが、この城も光秀の多紀、氷上連合勢力の分断作戦による金山城占拠によって急変、和議と称する謀ごとで秀治は51歳、弟、秀尚は25歳で命をたち、城に残った義弟、二階堂秀香ら多くの将兵は2カ月の籠城の末、本丸に火を放ちことこどく自刃した。
 時に天正7年8月2日のことであった。

 丹波一大合戦の古戦場となった八上城には落城の秘話を秘めた伝説も数多い。朝路媛が身を投じた朝路池、血洗池、はりつけ松----など。
          

1.朝路池
 本丸の東南、下の谷間にあり、籠城の際の生命をたくした貯水池である。落城のとき、朝路媛がこの池に身を投げて死んだといわれ、この池に「一人行きて、水鏡に自分の姿を写し、それが美女に見える人は、その人年内に死す」との伝説もある。落城の時、金銀財宝をかくし捨てた場所か?

2.はりつけ松
 和議と称するはかりごとに怒った城中の二階堂秀香らが、人質の光秀の母や腰元、明智つき人侍3人を松につるして、磔の刑に処したと伝えられる松は直径1メートル以上もあった老松の根株が昭和初期まで残っていた。
3.血洗池
 はりつけ松の西を5〜60メートル下った所にある池。処刑に使ったヤリや刀を洗ったと伝えられているが、以前は誓願寺水源の池で、飲料水池であったと思われる。風水害で埋まり、池は姿を消しつつある。

  
参考資料 篠山町 八上城顕彰会、篠山観光協会パンフレット
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