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2019年04月20日09:31

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第3章 「カルマ(行い)」についての章



クリシュナは「カルマ(行い)」と、自由を研究する手段となる「ヨーガ」について説明しました。生きる目的が「モークシャ(自由)」であると定まったとき、日々の「カルマ(行い)」はその目的のためになされるようになります。自由とは、自分自身の真実を理解することでした。真実の知識を理解するためには、疑いや迷いといった曇りのない知性が必要です。

人は行いを放棄することでは自由には到達できません。この世界の性質上、生き物の体・心・感覚は一瞬の間でも行いをしないではいられません。行いをせずに生きられる人はいません。呼吸することも、食べることも、考えることも行いですから、たとえすべての行いを放棄したと思えても、放棄すること自体が行いとなってしまいます。“自分が行いをしている、行い手である“ という自我意識がある以上、人は行いから自由にはなれません。

クリシュナはアルジュナに自分のすべきことをし、行いを常に「ダルマ(調和)」に一致させるようにといいました。行いの結果を期待する執着から離れた行いは、全体世界を調和させる「ダルマ(調和)」の法則に一致します。全体と調和することで、個人の思いや感情は静まり、落ち着きます。欲望や嫉妬や怒りなどない心には、自然と真実の知識が宿り、人は自由の意味を理解するようになるといいます。「ダルマ(調和)」に基づき、調和に捧げられる行いを「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」といい、それを行うことは世界の理解「バクティ(献身)」でもあるというのです。

やがて「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」により、調和した心に知識が宿ります。真実の知識を理解することで、人は「モークシャ(自由)」になります。ヨーガは真実の知識を理解するための手段であり、方法です。この章では、ヨーガの目指す最終的なゴールは知識を理解し、自由になることだと説明されます。

クリシュナは「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」によって知識を理解し、自由でありながらも社会の中で自分の役割を生涯果たし続けたジャナカ王を、優れた「カルマヨーギー(カルマヨガを修めた人)」の例として話しました。賢者は社会の義務や役割を持ちながらも自由であり続けることができます。人は自由になるために、必ずしもすべてを捨てる「サンニャーシー(出家・放棄)」という生き方を選ぶ必要はありません。

何が自由なのか? それはどのように達成されるのか? その知識と「ヨーガ(方法)」についてクリシュナは教えました。

そして「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」とは、他の人の義務を代わりに遂行することではなく、あくまでも自分に与えられたことを受け入れ、遂行すること。自分のなすべきことを果たすことで、自分の知性が整理され、心の落ち着きが得られ、知識への準備ができるからです。

クリシュナは人の体・心・感覚は「プラクリティ(可能性、根本原質)物質の原因である
3つの「グナ(質)」から成るといいました。

「サットヴァ(純質)」が優勢な心は、落ち着いて静寂です。真実を理解するのに適した心の状態です。
「ラジャス(激質)」は活動に象徴され、それが優勢であれば、肉体と行い、自分が行い手であるという自覚をはっきりと持ちます。「カルター(行い手)」つまり “自分は行い手である” という自覚が、人を行いと結果の異なる「カルマの法則(行いと結果の因果律)」に縛りつけます。「タマス(鈍質)」は不活発な状態であり、それが優勢な場合、人は無知で、覇気がなくなり眠ってしまいます。

外部の対象から感覚を自分の内に引き戻すことで、賢者は真実に目覚めるようになります。
対象についての執着や “好き・嫌い” は自分自身に対する無知から生じます。無知という暗闇は唯一、知識という明りによって追い払うことができます。

クリシュナはアルジュナに、義務や権利を放棄して生きるよりも、無知から生じた “自分は「カルタ―(行い手)」であるという自覚” を知識によって解き放つために、「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の態度で行いをすることを勧めました。戦士アルジュナにとって、果たすべきことは “戦う” ことです。それが危険で障害ある道だとしても、失敗することがあっても、すべきことを果たすことが「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の態度で生きるということです。それによって心の準備をし、人は真実の知識を理解します。

自分のすべきことをきちんと果たすことは大切なことです。たとえ他の人の役割が地位や名声や権力をもたらし、魅力的で、自分のほうが上手にできると思ったとしても、自分に求められていることを「ダルマ(調和)」に基づいて成し遂げることが、人を成長させることになるのです。

アルジュナは、「人はなぜ、望んでもいないのに、罪深い行いをしてしまうのか?」と聞きました。

それに対してクリシュナは、「それは欲望である」といいました。欲望が人に識別と理解を失わせ、不徳な行動に駆り立てるといい、欲望の背景には自分自身の無知という原因があると教えました。





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