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2019年03月17日01:30

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ここがヘンだよ!漱石さん2

前回、漱石のことを書いたんだけど、近代文学って意外と面白いかも・・と思い、つい調べてしまった。「新国語要覧」という高校の国語で副読本として使用されているものの概要をかいつまんでみた。
こういうのって、作家の作品をあたってみないことには、実際にはわからないんだが、ざっと見た感じでいうと、江戸時代から明治時代への近代への過渡期なので、時代的に面白いはずだなって思えた。
まずはやはり、政治の劇的な変化で、福沢諭吉、西周、中村正直といった啓蒙思想家の登場から始まっている。文学は、文明開化とともに西洋の書物の流入と語学教育のおかげで、徐々に西洋の手法が取り入れられているという感じだ。
最初に二葉亭四迷などが言文一致体を取り入れ、心理描写などを克明に描くといった手法で西洋の文学に近づけていこうとする努力があるんだが、そこら辺てまだまだ技巧ばかりに腐心していて内容は薄っぺらいらしい。
やがて、『金色夜叉』の尾崎紅葉や、『五重塔』の幸田露伴、そしてお札にもなった『にごりえ』『たけくらべ』などの樋口一葉らの登場などで、内容も充実してきだす。
日本文学は近世以前にすでに、戯作文学というのが存在するし、井原西鶴だとか近松門左衛門といった歴史的作家も既に輩出している。そのため、例えば「心中物」といったようなジャンルが確立されており、そういった日本的感性が近代の新しい文学手法にミックスされていったといったところか。
その後に、自然主義文学が登場し、田山花袋のような自身の性欲の赤裸々な告白といった変態小説が出てきたりする。まあ考えてみれば、このような変態小説も別段新しいわけではなく、江戸時代には、「こいつアホか?」と思えるような春本が既に出ていたりするんだけど、それをわざわざ文学に仕立て上げ、ご大層に「自然主義」なんて名づけるあたりが、ちょっと寒々しい感じもするんだけど・・
で、そんな状態で満を持して登場したのが、夏目漱石。
「新国語要覧」をかいつまんで解釈すると、自然主義文学があまりに露骨で下品なので、漱石のようなインテリが、もっと理知的に人間の真実を描いていこうとした。漱石は森鴎外とともに、「余裕派」と呼ばれ、自然主義に対する反自然主義と呼ばれたそうだ。

で、漱石の『それから』を読んでどうもいろいろ考えてしまったので、もうちょい漱石から派生したネタで引っ張ってみる。
漱石研究者なんぞ数多くいるので、とっくに研究済みかもしれないけど、漱石って、実は明治と言う時代が嫌いだったんじゃないかなーって思えてきた。どっちかいうと懐古的浪漫主義だったんじゃないかなと。
明治時代というのは、司馬遼太郎なんかは手放しで「素晴らしい時代だ!」というし、右翼の連中でも、明治の近代化こそがわが国の誇りである!なんて考える人が多い。シバリョウはそのくせ、昭和初期の日本はクソミソにけなすが・・
確かに、前近代からの脱却で、国が急激に富んでいく状況って、その時代の人は面白いと思う。それは、戦後の経済成長期も同じで、団塊の世代は青春時代が皆一様に面白くて仕方なかったらしいし、僕らバブル崩壊後の世代でも、80年代より、昭和30年40年の文化史なんかを調べると、「この時代はさぞ面白かったろうなあ。。」と思う。
日本人は、目標があると、なんだかとてもキラキラ輝く民族っていう気がする。
明治時代の富国強兵、殖産興業なんて、昭和経済成長期の比じゃないくらい、やりがいもあり、面白かっただろう。
ただ、今現在そうであるように、日本人が失ったものも限りなく大きい。
それは、前近代に作り上げられた日本の美しく素晴らしい文化であったり、伝統である。
近代化を押し進め、脱亜入欧を旗印にガンガンと前近代の日本的文化資産を破壊して、しまいには鹿鳴館などという欧米人にコビるためだけの卑屈な施設を作り、舞踏会などをやっているようなのも、また明治時代の特徴である。
そういった日本人のやっている浅ましさを、客観的に見抜いていたのは、漱石のような近代文学を確立させたと言われている文人たちだったのかもしれない。
まあ言ってみれば、現代において、社会や政治を風刺したり批判したりするのは、漫画家であったりとかパンクロッカーのような音楽家であったりとかなんだけど、それに近い役割だったのかもしれないね。
面白いのが、漱石って帝国大学の英文科を卒業していて(しかも首席!)、中学高校の英語教師に赴任したり英文科の講師をやったりしているんだけど、その教育者キャリアのなかで2度ほど、「日本人が英語を教えるのはおかしいと思う」と思い悩み鬱病だか神経衰弱だかになってしまう。全くよく神経衰弱になる人だ・・
漱石は、実は大学予備門時代に漢詩を専攻しており、「日本人なら漢詩をやるべきだ!」との信条を持っていたそうなのだが(漢詩ってそもそも中国だが、まあ細かいことは放っておきましょう)、そのため、漢詩の教養があってかなりの詩作を残している。その漢詩もなかなか優れていて、世界のその筋の研究家からも相当評価されているらしい。僕は特に漢詩の教養はないので、「どこら辺が?」と聞かれると困っちゃうんだけど。
それに、正岡子規とも長年の交流があり、短歌なども相当残している。こちらは特に評価されているという情報は得ていないが。
そう考えると、漱石って意外と相当な国粋主義者だったんじゃないかなあ。
だから、明治という時代を憂え、国の将来についても、相当憂えていた。

先の「新国語要覧」によると、漱石の作風・思想等に「自己本位」から「則天去私」へ、とある。漱石が、エゴイズムを追及した作家であることは有名だが、これって読み間違えると、エゴイズム肯定論者に読めてしまう。
『それから』で見たように、漱石は、決して究極の「自己本位」を生きる代助を許してはおらず、彼に天罰と言うべき末期を与えている。
漱石の追及したエゴイズムというのは、人間がエゴイズム丸出しにし続ける限りは、国の未来に幸福はない、という予言的なエゴイズム否定論ではないかと思う。
その最もわかりやすく身近なサンプルが、明治という時代だったのではないだろうか。
それは、司馬遼太郎が手放しで賞賛する、「国民国家形成のために、国民が滅私奉公で目標に向かって邁進する時代」である。
旧態依然の日本を脱却し、西洋の最新の知識と技術を取り入れ、列強国の仲間入りを果たし、近代国家を完成させる!という美しきスローガンに皆が躍進し、そして実際に完成させてしまった。その近代国家。
しかし、それは蓋を開けてみれば、自己本位の結晶に過ぎなかったのではないか。
誰もが、「これは何かおかしい・・」と思いながら、わが国の歴史的文化的資産を破壊し、築き上げた近代国家。誰もが自己欺瞞の中で、自分を納得させて築き上げてきたことに気づいていない。
と、そんな穿った見方をしてしまった。
仮にそうだとしたら、やはり文学者としての感性は並々ならぬものがあると思う。アカデミックなキャリアを投げ捨ててまで、漱石が職業作家へ転職したのは、まさに天職を得たという確信をしたからであろう。。

でまあ、ここまで書いてて気づいたんだが、、
僕は、最初、漱石をクソミソに批判しけなしてやろう、という気持ちで『それから』を読み出したんだが、なんか漱石にメチャメチャ共感して肩入れしているじゃん・・
別にだからといって、漱石を好きになったわけじゃありませんので!
しかしながら漱石の憂えた感情って、僕もとても共感するところはある。
ただ漱石さん、貴方、やっぱりちょっと暗いし、悩みすぎだし、理屈に偏りすぎ。
もっと、健全に肉体を鍛えて、ガッツンガッツンやって実践主義で明るく生きたらどうでしょうか、と思うのです。
まー、あんまり肉体派になってしまうと、こういう人って、最期には三島由紀夫みたいなことしちゃうんだろうな・・

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