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2019年02月16日10:30

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「日本国紀」第4章 鎌倉幕府〜応仁の乱



鎌倉政権/承久の乱/「一所懸命」と「いざ鎌倉」/商業の発達/文永の役/弘安の役/鎌倉幕府の衰退と悪党の台頭/鎌倉の文化/鎌倉の仏教/後醍醐天皇の討幕運動/悪党、楠木正成の挙兵/建武中興/南北朝時代/観応の擾乱/南北朝の統一/足利義満の野望と死/倭寇と勘合貿易/毀誉褒貶の足利義教/守護大名の台頭から応仁の乱へ/室町時代の文化/応仁の乱/応仁の乱の影響

<はじめに>
平氏との権力争いに勝利した源氏は、政治の実権を握ることになる。いわゆる「鎌倉時代」といわれる時代に入っていくが、鎌倉幕府の成立年には諸説あって、いまだに定説がない。

長い間、鎌倉幕府成立の年は、頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192)とされていたが、現代では、それ以前に始まっていたという説が主流になっている。たとえば、頼朝が侍所を設置して、事実上、東国の武士たちを支配下に置いた治承4年(1180)という説、東国の支配権を承諾する宣旨が下された寿永2年(1183)という説、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184)という説、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185)という説、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190)という説などがある。
実は、鎌倉幕府という概念は当時はなかった。この言葉が生まれたのは明治時代である。したがって鎌倉幕府という名称を使うのは適切ではないが、本書では便宜上、用いることにする。
そもそも当初の鎌倉幕府は関東を中心とする東国支配の地方政権にすぎず、西日本では朝廷が実権を握っていた。実際に鎌倉幕府の支配が全国に及ぶのはだいぶ後のことである。


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