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2018年10月01日07:42

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ミステリ作家の教養

作家の教養は、その文章で知られる。
『そして夜は甦る』で原寮が登場してきたとき、私はその文章に舌を巻いた。
隅々まで緻密で、思わずニヤリとさせられる諧謔と機知に富み、主人公の沢崎が漏らすあらゆる些細な感想に、世の支配的風潮への同意しがたい嗜好がうかがえる。それも、真正面からではなく、皮肉な調子でだ。
こんな知的な男がわが国のエンタメの作家に現れてきたのか!と思った。
湯島のオーセンティックバーでの忘れがたい先輩飲み友達のHさんは、「ハードボイルドの価値の判定のしかたをおしえてやろう。それはな、主人公の私立探偵に、ああいう男になりたい、と思わせるかどうかだ」と至言を吐いたものだ。「渡辺探偵事務所の沢崎です」と、登場の都度必ずいいながら現れる沢崎とは、まさにその言葉通りの男である。
それらの魅惑に打たれ、第一作の『そして夜は甦る』、二作の『私が殺した少女』、三作めの『さらば長き眠り』を、私はそれぞれ、ざっと4、5回は読み返したろうか。
それらにくらべれば明らかに落ちる第四作めは、二度しか読んでいない。
第五作は、どうせまたこの後長く書かないのだろうと予想し、まだ数年間は手に取らないつもりだ。
三作めと四作め、四作目と五作めのあいだの長い長い休止期間のとき、原はある雑誌のエッセイに、20代のとき、じぶんはある人間の文章だけを繰り返し読んでいたとの内容を書いていた。そこまで読んで私は、もうそれが誰か、言い当てられると直感した。
予想にたがわず、それは、小林秀雄だった。
原寮のあの文章なら、小林しかいない。
この原が作家になる前、売れないフリージャズのピアニストを10年やっていたことはよく知られる。
最近のべつのエッセイで原は、モーツァルトが好きで、その全作品をテープにとってあり、気のおもむくまま、しばしば聴くのだと書いていた。
これも、じつによく分かる。
中野重治が月報のなかで金子光晴についてそう語ったように、原寮が”芸術の美食家”であるにちがいないことは、その文章を愛する者には、明らかだからである。
漱石の文体の散文的な日常の底に流れる悲傷、鴎外の文体の「冬の日の朝の武家屋敷の玄関の式台のような」(三島由紀夫)端正な静けさも、この原なら、よく見抜いているにちがいない。

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