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2018年09月14日18:23

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南部藩の漆の里「浄法寺」ー薫風の旅日記㉒

五月の旅でとても残念だったのは 二戸市浄法寺に足を運べなかったこと
この地は 瀬戸内寂聴さんが住職を務める天台寺があることでも知られています

滞在した宿にいる間 昔ご縁のあった浄法寺在住の方に電話するもなかなか連絡
が取れず しかもバスでの宿までへの日帰り時間調整も難しく 最後の最後結局
諦めて郷里を後にした私でした

秋めいた今になって 昔買ってあった「南部うるし」と「南部の漆を支えた人
びと〜越前衆の軌跡〜」の本を引っ張り出して読んでいるところ・・・

この二冊の本 (かなかか覚えきれない内容ですが)ざっと目を通してみると 
いや応なく 不思議と故郷の歴史が新鮮に思えてきて胸高鳴る思いに(!?)


   本「南部うるし」 昭和56年6月30日第一刷発行
            田中庄一:大正四年二戸市福岡生まれ                 
   *漆は南部藩主要な特産物 漆には山うるしと里うるし(植栽)がある
   *漆の実はロウソクの原料 種は福岡代官所から渡し 実は許可を願い
    出て採集する「御取分制度」があった
   *街道並木に漆植栽を提案した(福岡漆奉行)佐藤庄左衛門
   *正徳三年(1713年)漆を福岡通りに植えるよう仰せつかった漆植奉行
    佐藤庄兵衛(佐藤家は旧浄法寺氏の家臣・1603年浄法寺氏没落後離散)
   *代官から任命された漆植立世話方川嶋盛人
   *厳しい東北の天候の街道での植栽は困難を極め 天保12年(1842年)
    植付奉行田中館彦右衛門が調査 並木折損者を訴えさせたり 牛馬が
    折損したらその馬主が弁償させられた また管理の難しさの記述もある
   *江戸時代後期は御国益御用所が開設され、領内で漆生産に当った
    漆の木の買い付けには 御国益御用所から発行された漆搔きへ鑑札が渡
    された 又漆かきの統制が乱れていた時代でもある
   *第二編/漆工起源の歴史の項では 浄法寺椀の種類や平泉藤原氏滅亡後
    鎌倉時代に天台寺もある糠部ヌカブ(当時の地方名)を拝領した山梨の南部氏
    八戸から三戸に下った南部氏の頃漆椀づくりも盛んとなり 二戸市の川
    嶋氏所有の椀 室町時代の箔絵椀がある 
   *浄法寺から産する椀を「浄法寺」もしくは「南部椀」と言い 古文書で
    箔椀と称した藩統制管理の献上される意外 幕末までは作る事も使用も
    禁止された等々以降近世までの内容・・・

最後 この本でi一番嬉しかったことはP118
「一方、衰えゆく浄法寺塗りを憂い、力を注ぐ人々も現れた。」と数人名前が挙
げられており その中に岩舘正二氏や佐藤誠男氏の名前もあった

岩舘正二氏は 夫が文化漆協会会員として何度も浄法寺を訪問した時にお世話に
なった方ですし 佐藤誠男氏は横浜の借家にも来て下さったこともある方 お二
方共ももういらっしゃい人ですが 懐かしいお名前が出て来た本

     *:*:*     *:*:*     *:*:*
 
さらに興味深かったのは「南部の漆を支えた人々」越前衆の話をまとめた本
著者は福井までも足をのばして丹念な聞き取りをして 記録を残しておられる

 本「南部の漆を支えた人々〜越前衆の軌跡〜」  
         平成18年1月18日発行 工藤紘一(昭和17年生まれ)

  越前衆の一人若杉稔は大正15年生まれ 最初の何年かは福井から春になる
  とやって来る漆搔きの出稼ぎ職人だった その内一戸に定住 後に漆仲買業 
  さらには終戦の昭和20年末には盛岡に「日本生漆生産集荷組合聨合会」我が
  国初のいわゆる木地/漆のくろめ/塗りの一貫の漆工場を設立し 常任理事を
  務めた人 越前から木地挽き・塗師・蒔絵師などの職人を越前から招いたと
  記されている

P132では 漆仲買業をしていた人の名前に藤田億三郎(二戸)の名前があった
子ども心に 駅前の金物や陶器を売っていた店だったかと記憶しています

越前衆の出稼ぎの漆かき職人の中には 福井の特産である金物などの行商をしな
がら浄法寺までやって来た人や仏壇なども売っていた人もあったらしい

漆の最盛期は戦後昭和23年頃まで すぐに漆暴騰の時期となった 
昭和38からからは越前衆の雇い入れはなくなり 地元の職人による仕入れ山だ
けに 代用漆としてカシューやポリサイトなどの化学塗料が発売される

越前衆の人達は日本海側を廻り青森に出て そこから二戸地方にに南下したと
言うから さぞかし大変な旅路だったと察します また宇都宮に住んでいた住
時聞いた話には 会津塗りの職人はカヤ葺き屋根の修理を手伝いながら農家に
住み込み 同時に漆器の修理もして出稼ぎをしていたとのこと

(時代は違うかもしれないが)子供の頃を思い出すと 私達の年代にとっては
「出稼ぎ」と言う言葉には少なからず郷愁を感じる馴染みのある言葉

厳しい東北の冬の間少しでも収入を得るために 農家の人は関東方面に春まで
出稼ぎに出ていし 南洋のマグロ船に乗っていた人などは久々に帰郷する折に
は世界の珍しいお面などを土産に持ちかえる人もいた

厳しい自然や暮らしの中であってもたくましく生きていた人々の力
また この本で北陸越前衆の貢献を知るにつけ 互いに寄り添えられたある意
味アナログ的ないい時代だったのでは・・・?

    *:*:*     *:*:*     *:*:*

あーそうだ !! 

思い出したのは 以前 佐藤誠男さんから頂戴してあった焼き物の「うるし入れ」 
懐かしいのままに取り出して 今日は花壇にあるクローバー日々草の花を飾ってみ
ました

   「ニチニチソウ」の花言葉は揺れるハート優しい追憶です
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