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2018年09月03日22:53

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9月3日

 男子更衣室からゴミ箱が消えた。誰がどういった理由で持ち去ったのかはわからない。もちろんぼくたちはそれを必要としていたし、それがなくなったことでかなり困惑した。鼻をかんだティッシュをどこにも放り込めずにいるのは、動きを縛られたようなストレスを感じる。
 ひとつ箱があるかないかだけで、ずいぶんな違いがある。当たり前の話だけれど、ゴミはゴミ箱に捨てるものだ。そういうルールでぼくはやってきたし、これからもそうしていくつもりでいる。でも、ゴミ箱はなくなってしまった。この事実はぼくたちの理性の真ん中で足を組み、挑発的な視線をなげかけてくる。で、これからどうするの、とでも言いたげだ。ぼくたちはじっと見つめられ、そして試されている。空気が重苦しく、どこか居心地の悪い心持ちになる。
 ある日、誰かが更衣室の床に使い終わったマスクを捨てた。片方の耳のゴムが切れていて、ひからびた虫みたいにひっくり返っていた。ついにやってしまった、とぼくは思った。その誰かは、モラルの分かれ道で誤った選択をした。もしかすると当人にとれば、軽はずみなことだったのかもしれない。でもそのマスクは、実際的に新しいルールがここに誕生したことを知らしめる目印ともなってしまった。
 それからは早かった。ありとあらゆるものが、その何でもない床に投げ込まれていった。ゴム手袋、メモ紙、お菓子の包装紙、ティッシュ、バネの利かないボールペン、制汗スプレーの缶、まだわずかに残りがあるジェル。その区画は、わずか数日でゴミの山になった。そしてそれは、今もなお大きくなりつつある。乱雑で暴圧的で、闇深い山だ。いちど決壊した秩序は収拾がつかなくなるという人の野蛮な側面が表立ち、ぼくの目の前にそびえていく。なんだか悲しくなってくる。
 こういったとき、ぼくの中には変な正義感めいたものがむくむくと頭をもたげてくる。それはこのゴミをすべて片つけてやろうといった想いだ。美徳というわけではない。この場を鎮静させるので後々なんかいいこと起こしてください、と神さまに見返りを求めてのことだ。不純な目論見がはっきりとある。でも何も動かずにいるよりはマシなはずだ。ぼくはマスクを2重にかさね、タオルを頭にまき、眼鏡、長袖、手袋の防備に、70リットルのゴミ袋を2枚をたずさえ、更衣室へむかった。
 作業は人知れず、こっそりとやった。意外にも15分くらいですんだ。でも濃密な時間だった。他人が排出したゴミというのは、なんとも気色が悪く、まがまがしい。目を背けたくなったり、吐き気をおぼえたりして精神的にもぐらついた。でもそのかわり、更衣室には整然とした秩序が取り戻された。何度も往復させた掃除機のヘッドは、そこにあった陰毛をひとつ残らず刈り取り、無機質な地平をあらわにさせた。そしてぼくは小指を青空に向けて約束事をくりかえす。何か幸運をください。
 翌日に出勤すると、更衣室にマスクが投げ捨てられていた。ぼくは愕然とし、声もでなかった。そのマスクの1投はかなり罪深い。間違いなく清掃の事実を知った上での無遠慮な行為だ。それはある種の挑発とも受け取れる。ぼくは憤った。こんなに苛立たしいのは久々だった。にぎった拳が打ち震えるくらいにはげしいものだった。どうにかして犯人を見つけ出そうと考えた。そして心行くまでこらしめたいと思った。
 そこに、ひとりの職員がドアをあけて入ってきた。
「お、きれいになってんじゃん。床」とその人は言った。
 それはスキンヘッドの少し怖い人だった。ベテランの社員で、とても声がよく通る。昔に攻撃的なバンドでベースかなにかをひいていたという話を聞いたことがある。 
 「そうなんです。綺麗になってたんです!でも、見てください。それでもすでに不要になったマスクが投げつけれているんですよ!どうしたらいいんですかね、まったくもう」
 ぼくはその人にすがるように言った。強力な味方をこちらにつけたいという気持ちもあった。
 でもその人は、「別にいいじゃん。もしかしたら、遠い未来で、ここが平成の貝塚みたいに発掘されるかもしれないぜ」と言ってペットボトルをそこに投げ捨てた。
 ぼくは「あ」と小さく言い、ペットボトルの軌道を目で追った。ペットボトルは床でからんからんと音をたてて何度か跳ねた。ぼくは彼の胸ぐらをつかんで「拾えよ」と怒鳴ろうと思ったけれど、今日のところはへつら笑いですました。


 

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