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2018年08月20日20:18

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ある会津人のこと その十一


翌日、高崎は秋月の案内で黒谷本陣にやってきて、
松平容保に拝謁し、薩摩藩の方針をはっきりとのべ、
薩会同盟を結ぶのである。

それまでの下相談として、会津側は重役たちを出し、
高崎と綿密にうちあわせした。

薩摩側はつねに高崎一人だった。
おそらくあとで藩の方針が変われば
高崎一人が腹を切るだけで済ましてしまえ
というぐあいになっていたものかと思える。

このあたりは薩摩的なやり方であり、
高崎自身もその覚悟でやったに相違ない。

宮廷への工作も、高崎がかねて薩摩藩が応援していた中川宮を通し、
孝明天皇に対しおこなった。

孝明天皇は長州ぎらいの佐幕家だったから、この薩会同盟のほうに乗った。

これによって八月十八日払暁、会津兵と薩摩兵が御所をかため、
九門をとざし、長州派公卿十三人の参内をとどめ、
同時に長州藩に対し、
それまでの義務−−堺町御門の守備−−を解除し、
淀藩にかわらせた。

長州兵はおどろき、おしあいがあったが、
結局は退去せざるをえなかった。

また同時に長州派公卿は官位を剥ぎとられ、
庶民におとされて御所を追われた。

この夜、いわゆる七卿落ちがあり、
長州軍の大挙帰国がある。

以後、長州人が「薩賊会奸」として薩会を憎みつづけたのは、
このときからである。

翌元治元年夏に大挙京に乱入し、いわゆる蛤御門ノ変があって、
ふたたび薩摩兵と会津兵のために追いおとされた。

蛤御門ノ変のときには西郷が上洛していて、
直接戦闘の指揮をとった。
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