mixiユーザー(id:11756250)

2018年07月17日02:57

344 view

ある会津人のこと その八

西郷にきらわれたために、高崎の政治手腕はついに未知数におわった。
明治後も大久保についたが、西郷についていない。

明治政府の政治面にはあまり出ず、主として宮内省の役人として終始した。

ついでながら、この人物について百科事典ではどう書かれているかと思い、
平凡社のそれをひいてみると、十二行の記事が出ていた。


「高崎正風」(一八三六〜一九一二)とあり、冒頭に、
「明治時代の歌人」 と、規定されている。


幕末に、西郷や大久保を出しぬいて会津藩と手を組んだという
大層な政治的トリック屋としては出ていない。
記事を抜き出してみる。



鹿児島に生まれ、桂園派の八田知紀に歌道を学ぶ。
1876年(明治9)御歌係、86年御歌掛長、87年男爵、
88年御歌所長、……歌風は古今調の温雅流麗で桂園派に新生面をひらき、
御歌所派として後進を誘導した功績は大きい。



と、あくまでも歌人てしての評価でしかない。

さて、会津藩公用局に籍をおく秋月悌次郎のことである。
会津の京都本営は、黒谷の金戒光明寺にあった。
城門のような黒門と、高い石垣をめぐらし、
万一の攻防のときには十分に城塞になりうる構えである。

しかし公用局の職員は、市中に下宿している。
秋月は、鴨川のほとりの三本木に下宿していた。

障子をひらけば叡山が見え、夜は水の流れがひときは高くなる。
三本木はいまはそうではないが、
このころはお茶屋(酒楼)の町で、諸藩の周旋方(公用方)は、主として、
三本木で会合し、芸者をあげて遊んでいた。

秋月はどうにも謹直な男だったが、京で酒楼の町に下宿していたところを見ると、
この界隈のふんいきが嫌いではなかったのであろう。

長州藩の公用方などは資金が豊富なせいもあり、木戸孝允や久坂玄瑞のように、
特定の芸者と特別な関係を結ぶ者が多かったが、
会津藩は物堅い藩風だったせいか、そういう例はあまり見られない。

秋月はどうだったかわからないが、ともかくも、貧しかった生家や、長すぎた昌平黌の寄宿舎時代をおもうと、脂粉と弦歌に満ちた夢のような環境だったにちがいない。

秋月が歴史の表通り通りに登場するのは、この年(文久三年)八月十三日夜である。
舞台は、この三本木の自宅だった。

夜、見しらぬ薩摩人が、前ぶれもなく、それも1人で訪ねてきた。
高崎佐太郎である。
見知らぬというのは、あとで秋月から連絡をうけた同役の広沢安任がそう言っている。
広沢の文章によれば、

是より先、佐太郎と相面識なし。

とあるが、そうだったに相違ない。

薩摩藩と会津藩は、公用方でさえ、それほどに交通がなかった。
革命勢力に属する者が警察当局と毎回会合をかさねていることが、
普通ありえないのと同様かとおもえる。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する