西郷にきらわれたために、高崎の政治手腕はついに未知数におわった。
明治後も大久保についたが、西郷についていない。
明治政府の政治面にはあまり出ず、主として宮内省の役人として終始した。
ついでながら、この人物について百科事典ではどう書かれているかと思い、
平凡社のそれをひいてみると、十二行の記事が出ていた。
「高崎正風」(一八三六〜一九一二)とあり、冒頭に、
「明治時代の歌人」 と、規定されている。
幕末に、西郷や大久保を出しぬいて会津藩と手を組んだという
大層な政治的トリック屋としては出ていない。
記事を抜き出してみる。
鹿児島に生まれ、桂園派の八田知紀に歌道を学ぶ。
1876年(明治9)御歌係、86年御歌掛長、87年男爵、
88年御歌所長、……歌風は古今調の温雅流麗で桂園派に新生面をひらき、
御歌所派として後進を誘導した功績は大きい。
と、あくまでも歌人てしての評価でしかない。
さて、会津藩公用局に籍をおく秋月悌次郎のことである。
会津の京都本営は、黒谷の金戒光明寺にあった。
城門のような黒門と、高い石垣をめぐらし、
万一の攻防のときには十分に城塞になりうる構えである。
しかし公用局の職員は、市中に下宿している。
秋月は、鴨川のほとりの三本木に下宿していた。
障子をひらけば叡山が見え、夜は水の流れがひときは高くなる。
三本木はいまはそうではないが、
このころはお茶屋(酒楼)の町で、諸藩の周旋方(公用方)は、主として、
三本木で会合し、芸者をあげて遊んでいた。
秋月はどうにも謹直な男だったが、京で酒楼の町に下宿していたところを見ると、
この界隈のふんいきが嫌いではなかったのであろう。
長州藩の公用方などは資金が豊富なせいもあり、木戸孝允や久坂玄瑞のように、
特定の芸者と特別な関係を結ぶ者が多かったが、
会津藩は物堅い藩風だったせいか、そういう例はあまり見られない。
秋月はどうだったかわからないが、ともかくも、貧しかった生家や、長すぎた昌平黌の寄宿舎時代をおもうと、脂粉と弦歌に満ちた夢のような環境だったにちがいない。
秋月が歴史の表通り通りに登場するのは、この年(文久三年)八月十三日夜である。
舞台は、この三本木の自宅だった。
夜、見しらぬ薩摩人が、前ぶれもなく、それも1人で訪ねてきた。
高崎佐太郎である。
見知らぬというのは、あとで秋月から連絡をうけた同役の広沢安任がそう言っている。
広沢の文章によれば、
是より先、佐太郎と相面識なし。
とあるが、そうだったに相違ない。
薩摩藩と会津藩は、公用方でさえ、それほどに交通がなかった。
革命勢力に属する者が警察当局と毎回会合をかさねていることが、
普通ありえないのと同様かとおもえる。
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