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2018年04月09日23:22

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bushido

どうもこの、小賢しい理屈ばかりがまかり通る世界に生きていると、ウンザリすることがある。
僕がやってきた仕事って、結局は、真に生きるために必要ってわけではない。単なる経済効果を生み出そうとする営みであるだけなので、何が正しいかっていうのは、究極、金持っているって奴になる。金持っている⇒権力持っている⇒発言力があるの構図。
別に下克上をしたいわけじゃない。現代のサラリーマン社会に生きる以上は、その流れに身を任せないと自分もおまんまの食い上げだ。
そりゃー当然、忍耐もする。僕も自分の生活を維持することに手一杯の一市井でしかない。
ただ、心のどこかに、この世界に馴染めない自分がいて、就職してから20年、キャリアをつんでも馴染めない自分のまま。少し成長したのは、おまんま喰うためにある程度の我慢が効くようになったってことくらいだ。

そんなクサクサした気分の時に、本棚を整理していたら、
「武士道の逆襲」(菅野覚明/講談社現代新書)
なる本が出てきた。
確か、以前、武士道に凝っていた時期があってその頃に買ったのだと思うが、パラパラと内容を読んでも、思い出せない。ただ何となく面白そうだったのでちゃんと読んでみた。
これが面白いのなんのって。
本書は、まず新渡戸稲造の「武士道」の批判から始まっている。一時、映画「ラストサムライ」が流行った時期にさかんに武士道論が叫ばれたが、その殆どは新渡戸稲造の「武士道」に描かれていることを議論の対象としていた。
昨今、武士道といえば、新渡戸武士道をもって、「素晴らしき道徳範疇」とされる向きもあるが、そもそも、新渡戸稲造が「武士道」を著した明治期は、日本は生まれたての近代軍隊のインフラおよびメンタルの整備を早急に仕上げなければならない時であり、そこに海外在住のキリスト教者である新渡戸稲造が、わが国に昔からある武士道と、儒教的要素を結びつけ、日本には「キリスト教と同等の道徳規範がある」としたに過ぎない。要は、西洋軍隊に追いつくための代わりの思想として武士道が選ばれたのだが、あくまでもキリスト教的価値観に沿った形で紹介されている。
そのため、本書の筆者は、それが昨今、本来の武士道と違う認識を日本人が持ってしまった原因としている。
では、本当の武士道とは何かというと。
筆者によれば、やはり明治期以前と以降で武士道の思想そのものが異なっているという。
江戸時代には既に、太平の世になり武士が本来の職分である戦闘に従事することがなくなったが、その気構えだけは本来の武士道を踏襲しているとして、武士が誕生した平安の世から地続きであるとしている。
本来的な武士道とは、具体的な「事実」の中にあるという。つまり、武士は、生死を賭して戦う戦闘集団という大前提があり、生きるか死ぬかのギリギリの状態にある日常の中で、生き残るためには、「説明」ではなく、「事実」こそが求められるということ。
敵の大将を仕留めた!という「説明」ではなく、実際にその首(事実)を持ってこなければ、信用されない世界である。口先の言葉に翻弄されると、騙されたときに己の命が危うくなるからである。
筆者は、武士を次の3つに定義している。

1.戦闘を本来の生業とするものである。
2.妻子家族を含めた独特の団体を形成して生活する。
3.私有の領地の維持・拡大を生活の基盤とし、かつ目的とする存在である。

その中で、儒教的な忠孝の概念だとか、禅的な無の思想だとかに行き着いてくることはあるにせよ、基本は、現世利益追及をその本分とするもので、目の前にある「事実」のみを追及していく集団だ。
そう考えると、武士というのは、現代のヤクザの世界、任侠道に通じるものはある。
現世利益のため、暴力を手段として権益を拡大していく。やっていることはムチャクチャなゴロツキでしかないのだが、その反面、任侠道という仁義に反さない哲学みたいなものは建前であれ、持っている。
事実は、武士にせよヤクザにせよ、相手を殺めても自分が生き残り奪っていくという、非人道的な人間が多いのだろう。建前としては武士道や任侠道を掲げたにせよ。
それが良いか悪いかといえば、悪の部類に入るのだと思う。
が、どこか爽快なものを感じてしまう。
だから任侠小説や歴史小説は常に、人気があるのかもしれない。

その生業が、生殺与奪を伴った私有地の拡張であるから、その生き様も苛烈を極める。
そこに、グダグダいう口先の屁理屈が入り込む余地はない。
僕が、その世界で生きられるかというと、多分、すぐにギブアップしてしまうだろう。その前にさっさと殺されているかもしれない。
だが、こうも小賢しい優等生の口先三寸がまかり通る世界にいると、こういう世界に一種の爽快感を覚えるのである。
だいぶ質が違うとは思うが、僕は、仕事で煮詰まった時は、無性にスポーツ観戦がしたくなる。そういう時は、あらゆるスポーツを観戦する。ただしサッカー以外。
これも、スポーツというのが、非常にわかりやすい「勝敗」という結果が全てだからである。武士の「勝敗」は生死に直結するから、やはり質は全然違うのだけど、己の肉体と頭脳をフルに使って勝敗を決する行為と、白黒はっきりと結果がでること。そこに対しては黙るしかない圧倒的な現実。そういったものを無性に求めてしまう。
それも自分にとっては「ないものねだり」だってわかってはいるんだけど、どうにもグダグダ理屈ばかりこねくり回す奴らが周りにいっぱいいると、四の五の言わず決着つけようやっていう気分になる。
この口先三寸の奴らが周りを翻弄し、それに巻かれていくのがサラリーマン社会の特徴だとするならば、僕は今後も出世はできないだろう。
出世はできなくとも、事実は事実としてしっかりと認識し、翻弄されない自分で居続けたいものである。

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