mixiユーザー(id:12410478)

2017年11月26日11:31

522 view

無くもがなの、昔話。

カップ麺が食えるようになったのは、
学部生の極貧状態から脱出した時です。

学部の極貧の時は、理科大の寮に転がり込んでいました。
友達が寮長だったので、でかい顔をしていました。
柏から春日部方面に延びる東武野田線の運河駅から、人通りのない街を歩くと、霊波乃光という新興宗教に隣接して、理工学部があります。
そこからしばらく行くと、寮がありました。
あの頃は、
バイオレットのポンコツを譲ってもらい、慣性の法則でときどきエンジンを止める、曲がるときのタイヤ抵抗を計算する。tanナンチャラ、λ Σ 法線ベクトル…という話で盛り上がりました(ぼくだけついていけませんw)

理系の大学だけあって、生活そのものは、非常に散文的です。
学園祭の準備の時に500人程度集まったほとんど男子(たまにいる派手な女子は近所の女子大です。気の毒なほど地味な子は、建築あたりの理科大生。それでも滅茶苦茶モテていました。なにせ、土木などは数年に一人しか女子がいないそうです。)の学生群を見ましたが、申し合わせたように、安っぽいブレザーにジーンズ。ほとんどが眼鏡。
革ジャンを着たり、髭を生やしたりしている人は、いません。

極端な例を挙げると、四年間で東武野田線を往復しかしていない…という人もいました。
入寮(入学)のときと、退寮(卒業)のときだけ。
郵便局と学生食堂とスーパーはありますし、専門書は生協にありますが、Tシャツやジーンズを売っている店は、当時はなかったはずです。
それにしても、一体、就職活動はどうしたのか…いや、就職活動などより勉強に没頭したのでしょうが、仮に、同じ敷地にある理工学部の大学院に進んだとしても、退寮のときに柏行きに乗ったのはなぜでしょう。不思議です。もう少し話を聞いておくべきでした。

食事も、生き残りを主眼としたものでした。
タダ同然で貰ってきたパンの耳を、粉末のクノールスープにひたす。
デパートのハム盛り合わせを歳暮にする家庭教師先のお母さんを説得して、魚肉ソーセージ大箱にしてもらう…という方法で、みんな生き延びました。

インスタント麺が食えるようになったら、
卵、味醂、ひき肉を麺と一緒に煮ることを覚えました。
味噌ラーメンは、鯖味噌缶や鮭の中骨缶、焼き鳥缶です。
ごま油とネギと生姜と七味を炒めたものを掛けると、結構なご馳走になります。

カップ麺は、インスタントよりも、高価です。
それが食えるようになってすぐ、
神保町のさぶちゃんを見つけました。
ここは、別の機会に書きますが、当時、ラーメンとチャーハンのとてもいいのがついて、390円でした。
カップ麺の三倍程度ですから、ここで一食食べて、後は適当…という生活でした。
カップ麺は、具がついていますから、たまに食べる時があっても、卵を落とす程度です。

ただし、味は濃くします。
お湯は小鍋で沸かし、清酒とミリン、少々の酢を入れます。

いつでも会えるという思いがあるからか、当時の仲間とはろくに会っていません。

あっという間に、みんな企業や研究所の中堅クラスです。
子どもも小さくても高校生。。

そろそろ、会いたいです。


カップ麺に“ちょい足し”したら美味しいものって!?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=116&from=diary&id=4874995
9 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年11月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930