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2018年01月20日06:59

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高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobujiさんの動画から

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高野山とも縁の深い方、両腕がない大石順教尼(本名よねさん)を、ふと思い出しました。
十一歳で京舞の名取りになった天才的な踊り子で、京都の名うての資産家と養子縁組を結んで、修行に励んでいました。
ところが、「堀江六人斬り」という悲劇に巻き込まれて、錯乱した義理の父親に両腕を切り落とされて、彼女だけが奇跡的に生き残りました。
「… 落とされし
.....................腕は高野の 
.........................................霧の中 」
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苦しみの末の彼女のそのあとの人生は、多くの生きる意味を私たちに教えてくれます。
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あるとき見た、
「 口に筆 / 取りて書けよと / 教えたる
鳥こそ / われの師にて / ありけれ }
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口だけで餌をとり、小鳥は、かいがいしく雛(ひな)の世話をし、懸命に生きていることに、ふと気づいたのです。
よねは、口で筆をとり、手なしでできないものも、いまあるものを懸命に使って生きていこうと、真剣に考えはじめたのでした。
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字の読み書きが、筆を口に一人前となり、お金も少しは貯められるようになったよねは…しかし、自立はできたとしても、何かしら心の中に足りないものを感じるようになっていきます。
…そうした満たされない日々の続いたある日の夕暮れ、お寺の門を通りかかったよねは、いっそのこと尼にでもなれと、その門をくぐり、住職にたのみ込んだのです。
しばらく考えていた住職は、静かにこういいました。
「 やけになっていっそのこと出家という甘い心がけでは、とても尼の務めはなるものではない。
仮になったとしても、あるときふと世間を見て、同じような心の煩悩が変化で燃え始めよう。
まずは、自然な心に添い、人の妻人の母となってみるのがよかろう…」と。
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結婚をあきらめていたよねは、心の隅でハッとするものがあるのは事実でした。
途方に暮れながらも、その後売れない日本画家と出会い、それから程なくして、夫婦として暮らし待望の長男も生まれます。
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ところが文展に入選し世に名の出た夫は、魔が差すようになり、次第に道を踏み外すようになったのです。
… 結婚から12年後、よねは二人の子どもを連れて、ひとり立ちすることを決意します。
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ところが、それから間もなく、順調に子たちと共に生きはじめたよねに、ある不幸が襲いかかります。
筆をとろうとすると、長年の精神的ストレスが、体に痙攣を引き起こすようになったのです。
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あるとき、霊験あらたかと聞いて通いはじめた、お地蔵さまの供養の道すがら、煌々と輝く月夜に広がる眼下の街の灯りを、ふと我を忘れ見ていたよねに、こんな考えがポツリと浮かびました。
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「 ただじっと、平静を装い…あるときは自殺を考え、わが身だけの不幸、堪えるべきものと、ひたすらに、心を押し殺して生きてきたけれど、あの灯りの下にはもっと、出口の見つからない人たちや、死にそうな人たちも、悲喜こもごも懸命に暮らしているに違いない…そうしたことすら気づくことなしに、我のみの苦と、自分は何と傲慢な生き方をしてきたものだろう…」と。
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その後、上京し口で帯などの図柄を描きはじめ、絵の腕を磨いて日展にも入選し、段々と作品も工芸品として世間に認められていくことになります。
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そして、そんな最中に関東大震災が起きました。
…よねは、人々の阿鼻叫喚を聞き逃げまどう火のなかで、二人の子供を連れ、わが身も逃げるのがやっとでした。
仕事場の工房も焼け落ちてしまいました。
そして、ふと我に返ったとき、よねの目の前に、被害で、腕を折られたり足が焼け、横たわっている人々の姿が眼に映りました。
…あちこちで、かつての我が身のように苦しんでいる人たちの姿があるのです…。
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それが、(あの住職以来の)尼僧大石順教が誕生したときでした。
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彼女の ことばです。
「 失ったものを数え上げ、涙の日々を過ごすより、どんなものでも、今の自分のなかの可能性を見い出して、感謝の心で暮らすこと。
心のなかにできたシワを伸ばし伸ばし、喜び上手に生きること。
どんな人生であろうが、その人生を愛すること。
どんな時でも希望をもち、明るい心で、生きること。」
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