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2017年09月09日14:55

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シューマン:歌劇「ゲノフェーファ」(マズア&GOL)

【収録曲】
シューマン:歌劇「ゲノフェーファ」Op.81(全曲)

ヒドゥルフス(トリエルの司教): ジークフリート・ローレンツ(Br)
ジークフリート(パルティン領の伯爵): ディートリヒ・フィシャー=ディースカウ(Br)
ゲノフェーファ(ジークフリートの妻): エッダ・モーザー(Sp)
ゴロー(ジークフリートの友,家臣): ペーター・シュライアー(Tr)
マルガレータ(ゴローの乳母,魔女): ギーゼラ・シュレーター(Ms)
ドラゴ(侍従): ジークフリート・フォーゲル(Bs)
バルトハーザー(下僕): カール=ハインツ・シュトゥリチェク(Bs)
カスパール(下僕): ヴォルフガンク・ヘルミッヒ(Br)
ベルリン放送合唱団

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
クルト・マズア(指揮)

1976年10月,Studio Paul-Gerhalt-Kirche,ライプツィヒ(セッション)
BERLIN Classics 0020562BC

シューマンには長いことアレルギーを持っていた。彼の音楽のエキセントリックなところに拒絶反応を示していたのだと思う。しかし,最近は,そのエキセントリックな音楽に病み付きになりはじめているようだ。もしかすると,もう完全に中毒症状を呈しているかもしれない。なにぶん「ゲノフェーファ」に手を出しているくらいだから。

現在,入手可能な「ゲノフェーファ」のCDは,ほんの数点しかない。ヨーロッパでは上演される機会が徐々に増えつつあるらしいが,国内では人気はもちろんのこと,知名度も低いのが実情だ。そのような訳で,CDを選ぶのにあまり手間はかからず,比較的すんなりとマズア盤に決まった。決め手になったのは豪華な歌手陣。ローレンツ,フィッシャー=ディースカウ,シュライアー,フォーゲルにモーザーと当時を代表するオペラ歌手が揃っている。オーケストラがゲヴェントハウス管弦楽団というのも気に入った。今日ではドイツの伝統的なサウンドも失われつつあるようだが,1970年代には重厚な響きが健在だったはず。ブラームスの交響曲全集などで,クルト・マズアにも好印象を持っている。

この予想は的中した。もう少し正確にいうなら,考えていた以上に濃厚なロマンチシズムがあふれる「ゲノフェーファ」である。このCDを聴く限り,ドイツ風のロマンチシズムに関しては,「魔弾の射手」(ウェーバー)に決して引けを取らない作品といえる。また,作品に負けず劣らず,ドイツでも一流の独唱者や指揮者,管弦楽団の組み合わせによる演奏であることも決定的な意味を持つ。さらに,当時の旧東ドイツ地域では,戦前からの伝統が強く残っていたことの影響も大きいだろう。

ジングシュピールに始まってムジークドラマへと発展するドイツ・オペラの主流に属し,その流れのほぼ中間に位置する作品であることが,このCDを聴くとよくわかる。リブレットを見る限りはナンバー・オペラの形式をとっているものの,それぞれの幕は休みなく演奏される。ジングシュピールからムジークドラマへと変わってゆくことが必然だったことを納得させられる演奏である。音楽が切れ目なく永遠に続くかのように響くからこそ,無時間的な夢幻の世界に心おきなく浸ることができる。物語のあらすじは,戦に赴いた夫が妻の不貞を疑うが,妻が誤解を解いてめでたしという,よくあるストーリーなので省略する。

以上がドイツで独自の発展を遂げた要素であるとすれば,イタリアで誕生したオペラというジャンルが,生まれたときの姿をとどめていることを示す要素にも事欠かない作品でもある。つまり,時代や地域などが変わっても,オペラは韻文をテクストにした韻文劇であるということだ。韻文によるドラマの上演効果を高めるため,テクストの歌い方で抑揚や韻律を強調し,さらに場面の状況や登場人物の内面を際立たせる目的で音楽が用いられている。

しかしながら,そのことが却ってドイツ音楽であることを目立たせる効果を発揮している。ドイツ語の韻文に節をつけて歌う,あるいはオーケストラの伴奏によってより効果的に表現する,つまり,そうした工夫がドイツ語のアクセントを強調し,ひいてはドイツ的な情感を醸し出す効果を生んでいるのである。イタリア発祥のオペラの流儀に従って,テキストに忠実なデクラメーションを追求すれば追求するほど,演奏された作品はドイツ風になってゆく。モーツァルトの時代頃まで,正統的なオペラのリブレットは,イタリア語でなくてはならないとされていた理由がよくわかる。

濃厚なロマンチシズムを別にすると,この「ゲノフェーファ」は端正な演奏であると思う。シューマンの音楽作品からイメージしがちなエキセントリックなまでのデフォルメという要素は限られているとの印象だ。この点に関しては,おそらく,このCDの制作に参加した演奏家の意思が強く働いていたに違いない。ソリストにしろ,指揮者にしろ,またオーケストラにしても,古典的な端正さを旨とする音楽家がそろっており,そもそも当時の東ドイツでは,表現主義や古楽演奏のようなデフォルメを良しとする考え方は一般的ではなかったはず。

このようにして,濃厚なところはあるものの端正な「ゲノフェーファ」が出来上がったのではないかと想像する。こうした特徴に加え,とても40年前の録音とは思えないほど響きが新鮮なCDでもある。もちろんアナログル録音なので,立派な再生装置で聴けば録音の古さは明白なのだろうが,レコーディングのソフト面がしっかりしているので古びた感じがしないのだろう。歌唱様式も一昔前のスタイルを彷彿とさせはするものの,それ以上にそれぞれの独唱者の様式感がしっかりしているためだろう,時代を超えた普遍性のようなものを感じる。オーケストラも,最近のゲヴァントハウス管弦楽団のキラキラ・サラサラな響きとは異なり,全く別のオケのような気がしないでもない。何年か前にシャイーが指揮する公演を聴いたが,国際化のマイナス面が顕著だった。この秋,久しぶりにブロムシュテットが振るこのオケのコンサートを聴くが,往年の響きをどれほど取り戻すことができるのやら。

このディスクを選ぶ際,アーノンクール盤にしようかと一瞬迷った。オケはヨーロッパ室内管弦楽団だし,指揮はアーノンクールなので,この組み合わせはどうだろうと疑問に思い,結局のところマズア盤にした。多分,正解だったのではないだろうか。また,満足度に関しては,シノーポリ&シュターツカペレ・ドレスデンの「楽園とペリ」を上回る。この「楽園とペリ」は少々あっさりしていると思う。

かつてはシューマンの形式や全体のバランスを無視した音楽に辟易していたが,そうした要素にも免疫ができつつあるようだ。何よりも,この「ゲノフェーファ」では,品の良さと濃厚さとがうまくバランスした演奏が気に入った。
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