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2016年12月10日22:41

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ウィーン国立歌劇場日本公演2016『フィガロの結婚』

モーツァルト: 歌劇『フィガロの結婚』(全4幕)

アルマヴィーヴァ伯爵: イルデブランド・ダルカンジェロ
伯爵夫人: エレオノーラ・ブラット
スザンナ: ローザ・フェオーラ
フィガロ: アレッサンドロ・ルオンゴ
ケルビーノ: マルガリータ・グリシュコヴァ
マルチェリーナ: マーガレット・プラマー
バジリオ: マッテオ・ファルシェール
ドン・クルツィオ: カルロス・オスナ
バルトロ: カルロ・レポーレ
アントニオ: イーゴリ・オニシュチェンコ
バルバリーナ: イレアナ・トンカ
村娘: カリン・ヴィーザー

ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
リッカルド・ムーティ(指揮)

演出・装置: ジャン=ピエール・ポネル
再演出: ウォルフガング・シリー

2016年11月13日(日),15:00〜,神奈川県民ホール


今回のウィーン国立歌劇場日本ツアー3演目のうち,「ナクソス島のアリアドネ」と「ワルキューレ」はやや期待外れに終わった。そうなった理由は複雑だろうが,最大の要因は指揮者だと断言して差し支えないだろう。現在のヤノフスキやフィッシャーに「世界最高のオペラハウスの引越し公演」に値する上演を求めるのは,少し荷が重すぎるのではないか。「フィガロの結婚」では,いよいよ真打ちの登場と相成る。

やはりムーティーは先の二人とは違う。ヤノフスキ,フィッシャー,ムーティーと立て続けに聴くと,格の違いは明瞭である。だが,以前のムーティーとは少し違うような印象を受けたのもまた事実だ。

腐っても鯛ではないが,年を重ねてもムーティー,スカラ座を離れてもムーティーである。音楽的なまとまりの良さが断然違う。音楽的な密度が濃く,その流れ方がスムーズこの上ない。つまらない不満がわき起こってこないので,舞台に集中できるのはありがたい。不必要なフラストレーションを聴く側に起こさせないのは,演奏者にとってアルファでありオメガなのだろう。小細工を弄するより,こうした基本的なことをしっかりおさえることの大切さを再認識する。

ムーティーといえば,ぜい肉を削ぎ落とした筋肉質の音楽を思い浮かべるが,今回の「フィガロ」は薄絹をまとったようなソフトな感触に仕上がっていた。もちろん,音楽の骨格そのものは堅牢であることは間違いないのだが,ウィーンのオーケストラを振っているためもあり,優美さを兼ね備えた「フィガロの結婚」になったといえる。かといって,テンポが落ちているわけではなく,従来どおりの若干速めのテンポを終始維持する。

テンポの設定に関しては譲ることはないが,その他については手綱を緩めて,かなりの程度オーケストラの自発性に委ねていたような印象が強い。かつて皇帝と呼ばれたムーティーも年相応に円熟したのだろう。いままでとはひと味違う手綱捌きで新しい境地を拓いた可能性もあり,楽しみがひとつ増えたと思うと同時に,かつての演奏スタイルに愛惜の念を禁じ得ない,という複雑な心境になる。

指揮者の意向が働いてのことだろうが,それぞれの歌手が技巧を競い合うというより,全体的にバランスのとれたアンサンブル・オペラという趣が強かった。ソリストたちは若手の有望株が揃っていて,よくまとまった申し分のない出来である。ダルカンジェロも突出することを避け,アンサンブルに溶け込むことを意識していたように見える。「フィガロ」というモーツァルトの創作を出演者全員が一致協力して,その傑作たる所以をいかに表現するのかに焦点を絞った上演といえる。

だから,フランス革命前夜の一触即発の空気を表現しようというのでもなく,何か新奇な解釈を押し付けようという魂胆もなく,古典としての「フィガロ」を再現したい,そのような意思を明らかにしているようでもあった。ただ古典といっても,古色蒼然とした復古調の「フィガロ」ではなく,現代の聴衆に充分アピールし得る最新の感覚に裏打ちされた古典であることも間違いない。おそらく,この点に関してもムーティーの意思が働いていたのではないだろうか。

まず,ダルカンジェロ演じるアルマヴィーヴァ伯爵は,身勝手で横暴な封建領主というステレオタイプの要素は後退する。初めから初夜権の復活など唱えても成功するはずはないといったニュアンスさえうかがわれる。かといって,欲望をギラつかせた中年男が女中に手を出すといったパターンでもない。伯爵が女中に触手を伸ばす内面的な必然性は観る側に委ねているようだ。一方,伯爵がはっきりしない分,伯爵夫人は強気に出ているという印象を与える。物語の展開が浮気な夫を懲らしめるという段になって俄然逞しさが増す。伯爵の愛情を取り戻すこと以上に,一人の女性として自立することの方がはるかに重要であるといわんばかり。

アレッサンドロ・ルオンゴのフィガロも,歴史の流れに逆行する伯爵に反逆する時代精神の体現者というというより,自分が仕える主人も自分の恋人も信じることができない一段とスケールの小さいどこにでもいる普通の男のように映る。才気煥発な策士というより,事態の推移に追い回されている人物のように映る。スザンナもどこかスーパーウーマンというより,出来事に翻弄される普通の女性という側面が目立つ。

伯爵も,伯爵夫人も,フィガロもスザンナも,お互い疑心暗鬼に陥った結果たがいに孤立した存在としての側面が強調されている。だから,登場人物は事態の推移に受け身で対処せざるを得ないようにみえるのだろう。

そうした中で,存在感が際立ったのがケルビーノとバルバリーナ。ケルビーノはこの上演のトリックスターであり,マルガリータ・グリシュコヴァがストーリーの展開を引っ張っていた。つまり,ケルビーノが引き起こす数々の騒動を丸く収めることがメイン・ストーリーになったように見えなくもない。バルバリーナもケルビーノに負けず劣らずの存在感を発揮していたといえる。この年頃に特有の乙女心をリアリティーとともに演じ切っていた。その媚態は一途でもあり滑稽でもある。

マルチェリーナとバジリオのカップルは憎まれ役という印象は薄く,最初からフィガロの窮地を救うためにこのドラマに登場したような印象を与えかねない。フィガロがわが子だと分かって善人に豹変するというより,初めから善人として舞台に登場したようだ。

このように書くと,「フィガロの結婚」という物語が支離滅裂な別の話になってしまったかのような印象を与えかねないが,このオペラの筋を捻じ曲げているわけではない。上演のディテールを詳述しただけの話で,大筋では許容範囲内だと思う。歌手が自分の感覚に従って素直に演じた結果ともいえる。

とはいえ,こうしたユニークな上演となったのは,陰に陽に指揮者の思惑が影響しているともとれる。つまり,まとまりの良いアンサンブル・オペラに仕上げようと試みた結果,それぞれの役柄を演じる歌手の個性や解釈が露わになったような気がしないでもない。コンパクトな「フィガロ」を目指したものの,その枠に収まり切らない要素が溢れのではないだろうか。力のある歌手をキャスティングした場合,このような事態が起きないとは言い切れないだろう。

それも含めて,マエストロ・ムーティーの「フィガロ」といえる。おそらく,どこまでもムーティーの意思が貫かれた「フィガロ」であったといえる。マエストロの強いプレッシャーのもとで,その枠組みに収まり切れずにはみ出した副産物も含め,ムーティーの意思が働いた結果とみることができる。

最後にプロダクションについて一言。この舞台の演出はジャン=ピエール・ポネル。当然,かなり古い演出で,今シーズンのウィーンでは別のプロダクションで「フィガロ」を上演しているようだ。おそらく,この国の聴衆の好みに合っているので,わざわざ昔の演出を引っ張り出してきたのではないだろうか。このプロダクションで「フィガロ」を観るのは,これで確か三度目のはず。たしかに,やや飽きた感はあるが,それ以上に疑問なのは,舞台と音楽との様式上の不一致が目立つということだ。今となってはややレトロな舞台と時代の先端をゆくような音楽との齟齬を感じる。

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