mixiユーザー(id:6640257)

2015年12月06日16:06

531 view

2015.10.12香港3日目その2

九龍街市からホテルに戻り、RESOCHAと九龍寨城に行く。

九龍寨城は九龍城砦とも呼ばれ、清朝時代に九龍城に作られた要塞である。
イギリスは1898年に、新界地区とランタオ島をはじめとする香港島嶼部の200余りの島々を99年間の期限付きで租借したが、この時に九龍城砦は租借地から除外され飛び地化した。
引き続き清国役人が常駐していたが、イギリスの圧力により、清国の役人は九龍城砦から追放されてしてしまう。だがイギリスが九龍城砦を占領することは条約違反となるのでこの場所を接収できず、事実上どこの国の法も及ばない地域になったのだ。
その後、中華人民共和国の樹立により、大陸から大量の流民がなだれ込んでバラックを建設し、スラム街が形成されることになる。
1960年代から1970年代には高層RC構造建築に建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造から九龍城砦の街路は「九龍城には一回入ると出てこられない」と言われるような迷路と化した。また、どの国の主権も及ばずに半ば放置された環境から、売春、麻薬、賭博、その他違法行為が行われ、「東洋のカスバ」、「東洋の魔窟」と呼ばれるようになった。


フォト


  ■在りし日の九龍寨城(wikipediaより借用)

1984年の英中共同声明により香港が1997年に中華人民共和国に返還されることが確定すると1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊して住民を強制移住させる方針を発表。
1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、その跡地に九龍寨城公園が造成された。

富豪東方酒店から九龍寨城公園までは徒歩で5分ほど、すぐに公園の場所はわかった。


フォト


  ■公園の地図があった。

地図の中央部に行けば、何かしらがあるようだ。
そちらに向かって歩いていく途中には、


フォト


  ■サッカー場や、


フォト


  ■バスケットコートがあり、


フォト


  ■公園として整備されている。

そこには、かって「東洋の魔窟」と呼ばれた面影は全くない。


フォト


  ■やがて門が現れた。

門を入ると、九龍寨城の

フォト


  ■模型と、


フォト


  ■壁画。

「東洋の魔窟」を連想させるものはこれだけだ。それ以外は、要塞時代の遺跡が。


フォト


  ■衙府。

唯一残っている要塞時代からの古代建築物で、今は公園を管理する事務所がこの中にある。
また、九龍城砦の解体時に廃棄物の中から発見された文化財が展示されている。


フォト


  ■当時の大砲。

本物か複製かようわからんけど・・・


フォト


  ■これはなんじゃ?


フォト


  ■香港法定古蹟 南門遺蹟。

1843年に清朝によって九龍寨城が建設された当時の門の跡だそうだ。


フォト


  ■門に掲げられていただろう扁額。

一般的に「九龍城砦」と呼ばれてきたが、正式名称は「九龍寨城」ということが、この扁額が発見されたことで明らかになった。

ん〜九龍寨城があったときに見てみたかったなあ(怖いもの見たさで)








6 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する