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2015年10月06日09:28

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言志四録「憤の一字」

【現代語訳】
発憤の「憤」の一字こそ学問上の大本である。孔子の高弟・顔淵が「あの理想の皇帝とあがめられた舜王も、われわれと同じ人間ではないか。志さえしっかり持っていれば誰でも舜王のようになれるのだ」といったのも、まさに発憤したからである。

【原文】
憤の一字は、是れ進学の機関なり。舜何人ぞや、予(われ)何人ぞやとは、方(まさ)に是れ憤なり。 (言志録第5条)


【解説1】
明治の実業家、安田善次郎と浅野総一郎は、読本(よみほん)の「太閤記」を読んだから青雲の志を立てたという。二人とも百姓から天下人になった木下藤吉郎に刺激されて、「彼も人なり、我も人なり」と世に出たのであqる。偉人伝のよさは子どもに「負けてなるものか」と、発憤の材料を提供することである。発奮こそ志のエネルギーということだ。
・・・・・岬龍一郎「言志四録」(PHP)より。

※安田善次郎・・・安田財閥、みずほ銀行、明治安田生命の創業者。
※浅野総一郎・・・浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所、旭硝子、日清製粉、日産自動車などの創業者。京浜工業地帯の生みの親ともコンクリート王とも言われる。

【解説2】
「俺はなれる」と思うか、「俺はとてもなれない」と思うかが、人間一生の分かれ道である。吉田松陰を育てた先生の村田清風が富士山を見て次のように歌った。
 来てみれば さほどでもなし 富士の山
     釈迦も孔子も かくやありなん

・・・・川上正光氏「言志四録(1)」(講談社文庫)より。


【解説3】
『論語』述而篇には「憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず」という言葉があります。啓発という言葉の出典がこれです。
孔先生は、弟子が身悶えるほど奮い立つ(憤)ようでなければ教えることはしなかったそうです。
ひとつのことを成し遂げるには、まず強く思うこと、身悶えるほどに奮い立つことが一番重要であると、佐藤一斎先生は教えてくれます。

かつて松下幸之助翁は、講演での質疑の際に、聴衆からダム式経営を軌道に乗せるにはどうすれば良いかと問われ、「わかりまへん。ただ思うことです」と答えたそうです。
そのとき多くの聴衆は失笑したそうですが、客席後方にいた若き日の稲盛和夫さんは、この答えに衝撃を受け、思うことの大切さを学んだのだそうです。

また後半部分の顔回の言葉は、『孟子』滕文公篇の冒頭にある言葉です。
舜といえば古の聖人です。強い思いをもって努力するならば、あの聖人の舜にだってなれないことはない、という強い覚悟を示した言葉です。

孔子が最も愛した高弟の顔回ならではの言葉とも言えますが、聖人も同じく人間であるから、努力次第では同じ域に達することも可能である、という言葉は私たちに勇気を与えてくれます。

さて、いま小生が憤していることは、若い人たちに古典を学ぶ場を提供していくことにあります。もっと早く古典に親しんでいればもっと違った人生を歩めただろうに、と小生のように返らぬ悔いをしてもらいたくない、そのためには若いうちから古典を学ぶことが重要であると信じるからです。

もちろん自分の分に応じた学びの場しか提供することができないことは言うまでもありません。
・・・・・一日一斎・『言志四録』を味わう(インターネット)より。



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