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2015年04月16日20:03

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ドラマにおける登場人物の内面の扱い方のなんとかかんとか

 シーンその1
 出稼ぎに行ったきり、しばらく家に戻ってきた父親(大泉洋)。「まあ、あれだな、おまえらもずいぶん大きくなったなあ」と気安げに子どもたちへ語りかけるが、家族の表情は変わらず硬いまま。「すいません、あのもう一回やりなおさせてください!」と土下座してから、「だってさあ、本当はすぐ帰ろうと思ってたんだよ、でも、いろいろあってさ……」と今度は懇願口調で許しを乞う。

 シーンその2
 母・蔵本はる(鈴木砂羽)に上京を反対されて家を飛び出した一子(清水富美加)のところへ、角慎一郎(ガッツ石松)と寺岡真人(塚地武雅)がやってきて、「母親ともっと話し合いなさい」「東京はこわいところで殺人事件や交通事故が毎日起こっている」と説得にかかるが、「せやさけ、田舎はいやなんよ。なんで近所のおっちゃんにうちの進路のことを口出しされにゃならんの!」とキレられ、二人は揃って「すいません」と謝り引き下がる。


 上の二つは放送中の朝ドラ『まれ』から抜き出しましたが、昔のドラマだったら人物の内面の逡巡や葛藤(かつてのように和やかに家族に受け入れられたいが拒まれたらどうしよう、上京による母親との軋轢や、知らない土地でトラブルに巻きこまれることへの怖れ)として扱われていたであろうことが、他の登場人物とのやりとりを通じコミカルなシーンとして表現されていることに興味を惹かれます。

「昔の俳優はさりげない表情や仕草一つで微妙な感情の揺らぎを表現できたもんだ。今のドラマはなんでもかんでも台詞にしてしまってギャーギャーうるさいばかりだ」
 と眉をひそめる方もいらっしゃるでしょう。ひそめたいむきには、格好の餌食なシーンでもあります。
 しかしながら、かつてはこうした逡巡や葛藤を笑いへと着地させる発想そのものがなかったでしょうし、思いついたとしても、実現するためのテクニックが開発されていませんでした。さらにいえば、視聴者そのものがこれは笑えることだとは認識できなかったでしょう。こういった内面のなんやかんやをまるごと言語化し放り出して笑う技術は、たとえばバラエティ番組のトークなどもふくめたさまざまな場において開発され発展し、同時に視聴者を啓蒙してきたものだと思います。結果としてその過程で失われたものもあるかもしれませんが、それはそれで進歩といっていいんじゃないでしょうか。

 BSプレミアムでは『あまちゃん』の再放送のすぐ後に『まれ』を放送していて、この二つのドラマ、なんとなく似ています。それについては現代劇であることとか、中央と地方の描かれ方であるとか、いろいろ指摘はあるのですけど、個人的には上記の人物の内面の処理の仕方みたいなものに類似を強く感じます。
 似てるとはいえ、そこから先のどっちの方向にひねるかみたいなのはけっこう違っていて、較べながら見るとまたけっこうおもしろかったりするので、ついついテレビに時間を費やしてしまっている今日このごろです。


 あと、ぜんぜん関係ないですけど、水川あさみがしずちゃんはないですよね。いくら一青窈を持ってきても、そこをぶっちぎるのはさすがに無理だと思います。



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