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2015年03月23日07:03

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「バッシング」

 戦後厳しく禁じられたものに「暴力」と言うものがあります。でも、「暴力」と言うのはなぜ「禁じなければいけない」ものなのでしょうか?どんな状況の時に「暴力」が用いられるかと言うと、一般に「自分の意思が通らないときに、相手を屈服させる」ために使われます。でも、この「暴力」には「良い暴力」と「悪い暴力」があるのじゃないかと思うようになりました。それを現代の日本人は頭から「一切の暴力を否定」することになっているように思います。

 一般に人が言葉を発するということは、相手の行動を変えさせる目的を持っています。ある意思を伝えて賛同させるとか、相手の不利な条件でも従わせるために命令するとか、何らかの代償を与えてその見返りにある種の行動をしてもらうなどの行為ですが、それが人間の持つ「感情」に左右されて、たとえば「同じことを別の人に言われたらやりたくない」とか、「自分の沽券に係わる」などの理由で同じ行動をとらないことがあります。物事には利害が絡んでおり、同じ「要求」に対しても「ほかの優先順位の者があるために、今はできない」とか、「自分の物を失いたくないから、受け入れられない」などと言うこともよくあることです。

こうした場合、相手の反応は「建前と本音」の使い分けなど、回りくどい形で「行動を逡巡する」ため、依頼者側は立腹したり、失望したりします。「理不尽」とか「理外の理」を持ち出されると、今度は依頼者側が感情的になり、暴言を吐いたり、暴力的に「バッシング」をしてでも相手の行動を変えさせたい衝動に駆られます。軍隊が進軍したり、刑務所が受刑者の自由を奪うのも、一種の暴力で屈服させる行為なのです。

 問題はこうしたバッシングが世の中には必要とされているのに、日常の民間の活動においては100%暴力が否定されているため、暴力に訴えたい側は「ヘイトスピーチ」や「イジメ」などの卑屈な行動に陥り、逆に傲慢な他人に迷惑をかけっぱなしの側は「制裁を恐れなくてもよいために、傲慢をエスカレートさせる」と言う弊害が出てきます。昔は「お天道様が見ている」などと言う「自戒の精神」を教えられたり、「自警団」などが組織され、横暴な行為は自ずから自戒されていましたが、昨今は大人の社会でも目に余るものが出てきました。

 参議院の小西議員のように、国権の最高機関の国会の場で安倍総理大臣を無能呼ばわりしたり、総選挙で圧倒的な支持を得ている自民党に敬意を表せずに、「政権打倒」を叫ばれると、こんな有害な代議士は「資格はく奪」や「退場」を命じることはできないものかと思います。予算委員会の中継を見ても、今の国会で取り上げて通さなければならない国民にとって重要な課題が山積みなのに、些細な献金問題を何度も何度も入れ代わり立ち代わり食い下がり、肝心の国民が関心を持つ案件の審議は上滑りの議論で終わるという国会中継にうんざりしています。だって「政治資金規正法」で問題になっている金額は5万円かそこらのはした金であり、国会議員の歳費から考えたら、ほんのお小遣い程度の金額で何時間ももめるそんな重要案件に見えないのです。

 世に「一罰百戒」と言う言葉もあります。常時暴力的に「問答無用」と吐き捨てるのもよくないと思いますが、たまには「バシッ」と一発食らわせてやる方が後腐れなくすっきりとした関係が構築できるのじゃないかと思います。
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