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2012年11月06日17:52

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マリー・アントワネット物語展

そごう美術館で開催中の『マリー・アントワネット物語展』に行きました。チケットは、毎度お馴染み、新聞屋さんからの貰い物。。新聞屋さん、いつも有難う〜。
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音声ガイドを借りてみたのですが、漫画家の池田理代子さん(ベルばらの作者だ)が解説をしていました。声楽家でもある池田さんが、マリー・アントワネット作曲の歌を唄ったりもする、そんな音声ガイド。でも、説明がちゃんと付いていたので、なくても大丈夫だったような気はします(説明に書いてないコトも、ちゃんと解説はしてくれましたが)。お客さんは、ほぼ女性。でも、意外に若い方もいたな・・・。いや、お客さんおばちゃんが多そうな展示だよね?と思ったので(^_^;)。横浜そごうの中にある美術館なのですよ。なので、場所柄からして、おばちゃん多そうな気がしていた。

言わずと知れた、ルイ16世の奥さん。マリア・テレジアの15番目の娘。で、この展示内容は、マリーの結婚から処刑までを追う展示構成だったのですが。見終わって、何か、切なくなってしまった・・・。いや、この娘さん。国家に携わると言う部分では、ダメ人間だったとは思う。でも、本当に、お嬢様で革命が起こるまで「何も知らなかった」んだろうな・・・と言うのと、習慣も何もかも違うフランスに14歳で投げ込まれて、18歳で王妃になって、プレッシャーやストレスも凄くて、そりゃ、こうなるは・・・と、ちょっと分かるは・・・と思う部分とがあったり。だって、18歳だよ?今で言ったら、女子高生だよ?「王宮、超〜タルイんですケド〜。」みたいな年齢だよ?そんな年齢で、監視だらけで生活するのはキツイよ・・・。

マリーは1755年11月にハプスブルグ家から14歳で嫁ぎました。37歳で処刑されています。マリーのコトを、母のテレジアは「怠惰で軽率、努力をしない、判断力に乏しい娘。」と心配していたそうなのだが、その心配は当たってしまったのかも知れない・・・。マリーの何が1番問題かと言えば、本来、フランスに嫁いできたら、もう、実家のコトは忘れて、フランス国の為だけに人生を捧げなきゃいけなかったらしいのだが、マリーは、それが出来なかった。(カトリーヌ・ド・メディシスなどと比べられて、文句言われてたみたい)
因みに。マリーちゃんは生まれた時から、人生が決まってました。ハプスブルグ家とブルボン家の200年続く戦いに終止符を打つべく、「戦略結婚させる」と決まってたらしい。勉強嫌い。遊ぶの大好きの普通〜の女の子の、絶頂から、どん底までのお話です。

『オーストラリア皇女マリア・アントニア』 C.F.フリッチュ。ビュランと書いてあったので、版画ですね。円形の肖像画。まだ、マリア・アントニアの頃だ(ここで、あ、そうか。本来はドイツ語読みなんだ!って思うよね。ウィーンの貴族だもん。ハプスブルグ家)。14歳くらいでしょうか。目がくりんとした、可愛い少女。テレジアは、マリアに「アナタは皆が愛さずにはいられない優しい心と、優美な容姿を与えた。」と手紙に書いたらしい。

で、14歳でルイ16世の元に嫁ぎます。このルイ16世。狩りと錠前作りが得意と言う、ちょっとヲタっぽい王様です。でも、当時、何人も愛妾がいる王様が多い中、マリー一筋で、優しい王様だったらしいよ。ちょっとボーっとしてたみたいだケド(^_^;)。
で、マリーちゃんは美人だったし若かったしで、フランス国民には、熱狂的に迎えられます。
『舞踏会の間』と言うフランソワ=マリー=アントワーヌ・ボワゾの銅版画があったのだが。もう、シャンデリアバッリバリの舞踏会の様子を描いたもの。小部屋にシャンデリアだらけ。何でも、この舞踏会やってた建物。結婚祝いに特別に作ったモノらしい。しえぇぇぇ〜・・・。で、舞踏会のチケットは4500枚用意したのだが、実際来たのは6000人だったとか。あと、前庭が一般公開されて、パリ市民が半分くらい押し寄せたとか。あぁ、この頃は、皆祝福していたんだね・・・。

『ルイ16世の戴冠式』(ル・ベルとエスノ&ラピリー工房)の版画があったが、ノートルダム大聖堂で6時間かけてやったらしいよ。参列者が聖堂内にズラ〜〜〜〜〜っと座って、中央少し上に、ルイ16世。王様には聖なる油が注がれるらしい。で、王様って、ただ王様になるんじゃないんだってね。王様=神になるって意味もあるらしい。日本の天皇陛下もそうだよね。神になる儀式があるよね。コレ、エッチング彩色で綺麗な絵でした。

この頃は、祝福ムード満点だったのが良く分かります。『フランスからの祝意を受けるマリー・アントワネット』(ジョゼフ・ド・ロングイユ)のエッチングがあったのだが。中央に王妃。王妃の前に擬人化されたフランスが跪き、周りにはフローラ、ミネルヴァ、ヴィナス。天空には花を持ってる三美神の姿も。「アナタは、フランスに愛されてますよ。」って絵だもん・・・。(コレ、綺麗だったのに、ポストカードになってなかった・・・)

で、ここから、当時のフランスの町が分かる油彩画が何点か展示してあったのだが。『ノートルダム橋とジャンジュ橋の間で行われた船乗りたちのゲーム』(ニコラ=ジャン=バティスト・ラゲネ)と言う絵。セーヌ河に船が沢山来ていて、船上に立ち、長い棒を持っている人がいる。何じゃコレ?と思ったら、コレ、長い棒で突き合って相手を水中に落とすゲームらしい。あ、だから、棒を構えてるのか。守護聖人の祝日にやってたゲームらしい。で、この時代って、橋の上建物だらけなのね!橋の上に建物建っちゃってるケド、これ、どうやって通行したの??

同じくラゲネの『オルセー河岸からの眺め』。チュイルリー宮殿とオルセー河が見える。マリーは嫁いで3年目の夏「パリへ行きたい。」と言って、このチュイルリー宮殿へ(ここ、離宮ね。当然マリーの本宅は、ヴェルサイユ宮殿です)。ここに住んで、マリーは芝居を見たり舞踏会を開いたり、賭け事したりと、もう、遊びたい放題だったらしい(^_^;)。でも、パリ市民も、美しい王妃を一目見ようと、この宮殿の前に集まったらしいよ。(バルコニーに王妃は立つんだってサ)
マリーってホントに美人だったのかな?と思ったのだが、マリーの彫刻があって、コレは、1番似てると言われてるモノらしく、それが本当なら、細面で鼻が高くて、巻き毛で優美で、「あぁ、確かに美女だったんだなぁ。」とは思った。王様&王妃様ポスター(版画)まで展示してあった。庶民は、彫刻は買えないので、こういうモノを飾ったんだそうな。

アレクサンンドル・タルデューの『王妃マリー・アントワネット』の版画は、花を持ち女神(フローラかな?)ぽくポーズを決めたマリーちゃん。羽衣も肩にかけている。こう言う寓意画として描かれるコトも多かったらしい。
しかし。ルイ16世の身体的な問題もあったにせよ、元々社交的で派手なマリーと、ヲタなルイでは合わないコトもあったらしく、所謂夫婦生活は7年間なかったと。だから、マリーはフェルゼン(スウェーデンの侯爵)に心を奪われたりしたんだよなぁ〜。でも、子供が生まれたら、マリーは、遊びも減り、子育てもちゃんとやったらしい。特に王太子には厳しく躾けたんだって。

『王太子誕生の寓意画』(フランソワ=ギヨーム・メナジョ)には、擬人化した緑のマント姿のフランスが、王子を抱き、周りに天使、右にそれを祝福する役人、左下に喜ぶ市民が描かれた絵だった。マリーは第1子が女の子だったから、王子が生まれたら、お祭り騒ぎ大絶頂になったそうな。王太子誕生の翌年。祝賀会が行われたらしいのだが、その版画が、まぁ、凄い。パリ市庁舎で仮面舞踏会をやったらしいのだが、チケット13000枚出して、出した食べ物でテーブルが潰れただの、郊外のリール市内の様子を伝える版画では、王太子を讃える建築装飾が作られ、花火が上げられ、もう、何じゃこの騒ぎ・・・です。(でも、日本でも、天皇一家に男皇子が生まれた時、騒いだか(^_^;)) でね。ぶったまげるのが、この当時、フランスの王妃って公開出産なのね!その様子も版画になってたが、中央にマリーが「何コレ?」と言う不安気な顔でいて、周りをズラ〜〜〜って、着飾った貴族がいて出産見てる。何でも50人来たらしく、熱気と緊張でマリーは気を失ったらしい。・・・酷くね?いや、他も、ご飯食べるところも皆に見られるし、王室一切プライベートなし!だったらしいんだが・・・。出産は命に関わるのに・・・。変な習慣・・・って思ったら。「子供のすり替えを防止する」意味もあるんだってサ。でも、50人も人がいたら、逆にどさくさですり替えやすそうじゃないか?

記念メダルの展示もあった。王太子誕生や、マリーのパリ訪問の記念メダルは分かるのだが、吃驚だったのは、マリー処刑の記念メダルがあったコト。表にはマリーの横顔。裏には天秤と松明を持って立つ復讐の女神フリアイ。天秤の軽い方には王冠と『国王』と書かれた紙があり、重い方には短剣が彫られていた。処刑もイベントなんだね・・・。市民は、記念メダル買ったんだろうね・・・。「やった〜!処刑された〜」とか言って。何か、ちょっと・・ううむ〜。

王妃様の画家と言えば、エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン。今回も2点来てました。『王妃マリー・アントワネットと子供たち』。赤い服のマリー。膝に娘を抱え、右には王子。王子は空っぽの緑のゆりかごを指して、「妹が亡くなった」コトを示唆しているそうな。マリーの腕には長女のテレーズがしっかりしがみついている。マリーは4人の子供を持つけど、結果、生き残ったのは、このマリーの腕にしがみついてるテレーズのみ。マリーの最期を知って、この絵を見ると切なくなります。

ここからファッションコーナーになった。何でも、マリーは、ヴェルサイユに自分の趣味を持ち込んだ唯一の王妃だったらしい。彼女の好んだ菓子やコーヒー、入浴の習慣は、宮殿で流行したんだそうな。特に香水。マリーは、薔薇やスミレの香水を好み、フランスは当時、体臭をごまかすための(そんなに風呂入ってなかったろうしね)、強烈な動物性の香水使ってたので、この花の香水は珍しくて、またたくまに流行したんだってさ。当然、マリーには、お抱えの調香師もいた。ヴェルサイユの自分の部屋や、プチ・トリアノンの改装なども自分が口出してガンガン改装して。揚句、この人、農村遊びの為、プチ・トリアノンに農村を作るからね。こんなコトやってるから、お金なくなっちゃうんだよ・・・(-"-)。と思いつつ、現在は、こういう工芸品が、美術館に並ぶわけだよね。

『フレザル・ド・ブルフォ夫人』の絵ってのがあって、リュート・・リラダガンバかな??まぁ、ギターみたいな楽器を持ってる貴婦人の絵なのだが。これはマリーの侍女の一人だったらしいのだが。そばに『王妃付侍女任命状』ってのがあって、この任命状『par la Reine(王妃の名において)』って書いてあるんだ。通常は王の名に〜なので、コレがまた、問題になったんだって。小生意気に映ったんだろうね。マリーはマリーで、文句言われても「何で、自分の侍女すら自分で決められないのですか?」とか、言いそうだし・・・。

面白かった工芸品。『思い出の小箱』。七宝焼きの美麗な絵が入ってる小さな箱。象牙の薄板と金製のペンがあって、「何コレ?」って思ったら、コレ、メモ帳なんだって。ダンスの順序やダンスを申し込まれた相手の名前を記録したりするもので、貴婦人の必需品らしい。良く見たら、確かに、象牙にうっすら文字が書いてあった。優雅に見えても、火花バッチバチ散ってそうだよなぁ、社交界って。

『マリー・アントワネットの時計のねじ』ってのがあったのだが、ルイ16世作でした。ラピスラズリが嵌め込まれた小さいねじ。他にも、幽閉された時に作ったと言う、ナイフなども展示されていて、ルイ16世、ホント手先器用だったんだね・・・と思う。今なら、ガンプラを夢中で作ってる人だったろうね(笑)。

この当時、付けぼくろが流行するのだが、『付けぼくろ入れと筆』の展示もあった。付けぼくろって、光沢のある黒い絹の切れ端で作って、ゴム糊で貼り付けるんだってね。で、小さい筆が付いてるんだが、この筆で貼り付けるんだって。肌の白さを際立たせる為だったり、チャームポイントにしたり、肌のトラブル隠し(きっと、ニキビとか隠すんだ)にも使用したんだそうな。へぇ〜。

もう1個「あ、コレ、化粧なんだ」と思ったコト。ルブランが描いた『王妃マリー・アントワネット』があり、バストショットの王妃様の絵なのだが。王妃様ほっぺた真っ赤なのね。で、私、絵で強調してわざとそう描いてるんだと思ったら、コレ、化粧なんだってね。「あ、チークなんだ。」って思って。やはり、肌の色を強調する為に、頬を赤くしたんだって。

他、私は、時計が気に入ったなぁ〜。王妃様はブレゲの時計を沢山持ってたらしい。1個くれ!(笑) 『マリー・アントワネットの時計』と言うのが展示してあったのだが。マリア=テレジアが、結婚する時マリーに持たせたもので、針にはダイヤ、琥珀も使われ、鎖には真珠が飾られる豪華さ。MAと書かれた印判(封蠟に使うモノね)もついていた。コレ、娘のテレーズに受け継がれたみたい。私、「何で、時計って、宝石屋さんで売ってんだろ?」ってずっと不思議だったのだが、こういうの見ると分かるよね。七宝の蓋だったり、宝石で飾ったり。実用品ってより、宝飾品だからなんだ。

で、復元したマリーのドレスコーナーがあった(ここのみ写真撮影OK)。マリーのドレス代って年間10億円だったらしいよ。・・・・10億・・・そりゃ、国民逼迫するよなぁ〜・・・。当時はロココ調でリボンやレースがバリバリ。それを巨大なヘアスタイルで全身のバランスをとり、扇を持つ。(扇の展示もしてあった。象牙だったよ(^_^;)) マリーは他にもイングランドドレスや、シュミーズ風ドレスなど、新しいファッションの流行をどんどん作ったらしい。シュミーズドレスは、プチ・トリアノンのプライベート空間で着ていて、その絵をルブランが描いたら、それが下着姿に見えたらしく「はしたない」と非難されるも、そのシュミーズドレスは、後に大流行したんだそうな。イギリス風ドレスは、フランス風に比べると、レースやリボンは少な目。シンプルでパニエ(スカートを膨らませる下着)も広がらない。こういうドレス。綺麗だが、当時、ギッチギチにコルセット絞めて着てたから、キツかったろうね・・・。頭にでかい船などを乗っけるんだケド、コレは、結髪師のレオナール・オーティエの発案だったらしい。王妃の為に奇抜なヘアスタイルをいくつも作ったと。思わず「オマエか〜!!オマエが、『王妃様。髪の毛に船を乗せるのがトレンドでございます。』とか吹聴しやがったのかぁ〜!!」と思う(笑)。この盛り髪&飾り。デカすぎて、馬車に乗るのも一苦労だったらしい(爆笑)。このコーナーには、池田理代子さんが描き下ろしたマリーのイラストもあった。

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イングランドドレス。リボンもレースも少な目で、パニエも広がらない。私はこのドレスが1番気にいった。

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シュミーズドレス。確かにシンプル。普段着仕様。

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映画撮影時に作った衣装らしい。可愛い系。

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池田理代子さんのマリー・アントワネットのイラスト。池田さんは、マリーの人生に感銘を受け、ベルばらを描いた。

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貴婦人が頭に飾ってた船。今となっては、冗談としか思えない(笑)。そりゃ、これで馬車乗るの大変だったろうよ・・・(^_^;)。

で、このファッションなどの放蕩っぷりが目に余り、マリーは「赤字夫人」と言うあだ名まで付き、どんどん国民の信頼を失っていきます。1789年10月。ヴェルサイユに群衆が押し寄せる。夫妻はチュイルリー宮殿に連行され、2年後、フェルゼン(マリーが愛した唯一の男性だ。スウェーデン貴族)の手引きで亡命を企てるも失敗。ダンブル塔へ幽閉され、1793年に処刑される。

で、革命のきっかけにもなった、有名な首飾り事件ってのがあるのだが。(ベルばら見てた人は知ってるよね)
策略家のラ・モット夫人が、宝石商のパサンジュに「豪華なダイアの首飾りがあります。お買いになりませんかマダム。」と声をかけたのがきかっけ。この首飾り。元は、ルイ15世が愛人のデュ・バリー夫人に贈ろうとしたものだったが、ルイ15世が死去。パサンジュは全私財をなげうって、この首飾りを作ったモノだから、何が何でも、お金を回収しなくちゃいけなかった。(契約違反ですって何回か異議申し立てはしたみたいだが、無視されたみたい) で、デュ・バリーは平民出身なのだが、才覚があって、宮殿に入れるまでの身分になった女だから、ここで一計を案じる。
ロアン枢機卿と言う人物がいるのだが。この男。放蕩野郎で、マリーもテレジアも嫌っていたそうなのだが、デュ・バリーは、ロアンに「王妃様が、ダイアの首飾りを欲しがっています。プレゼントしたら、王妃様の寵愛を受けられましてよ。」と嘘をつく。しかも、マリーに似た娼婦ニコル・ルゲイを王妃様に仕立てあげ、ロアンに会わせたので、ロアンはすっかり信じ込み、首飾りを買って、デュ・バリーに渡してしまう。デュ・バリーは、手に入れた首飾りをばらして、さっさとダイヤを売ってしまった。で、この事件。明るみに出た際、マリーは、何も知らなかったのだが、パリ市民が味方したのは枢機卿の方。「マリーが嘘言ってんじゃね?ホントは関わってんじゃね?」と疑念を抱かれ、マリーの人気は地の底へ・・・。
この主だった登場人物・・ニコラや枢機卿の銅版画が展示してあったのだが、この話を聞いて銅版画を見ると、デュ・バリーがスゲエふてぶてしい女に見えるって言う(^_^;)。因みに。デュ・バリーは、公開百叩きにあい、終身刑になるも脱獄。その後、事件の責任は王妃にあると言う回想録を書いたそうな。もう、流石、平民からのし上がった女!ガッツが違う!こうじゃなきゃ、平民から宮殿へは行けねえんだな・・・。女の子2人組が、コレを読んで「スゲエなデュ・バリー」と呟いていた(笑)。
クリスタルで復元された首飾り事件の『首飾り』も展示してあったのだが。650個のダイヤを使った超スゲエものだった。コレ、重いだろうね・・・。

人気が地に落ちたマリーは、風刺画では、ハーピー(ギリシャ神話の怪物)の姿で描かれていた。その下には中傷文。私はフランス語は読めないが、『アニマル』ってあったので、「クソ、動物女」くらいの感じなのかな・・・。

アレクサンドル・クシャルスキーのマリー・アントワネットの肖像があったのだが。コレは、マリーが王宮で描かれた最後のものらしい。ルブランは、マリーが失脚し亡命するのだが、クシャルスキーはルブラン亡命後の正式な王妃の肖像画家だそうな。ワインレッドのドレスを着た王妃は、毅然としてるが、どこか寂しそうにも見える。

1793年1月21日にルイ16世は処刑される。マリーは法廷に出席するも、この裁判は形式だけのもの。実際には処刑は決定していた。それでも、マリーは、毅然と証言をしたらしい。その後、コンシュルジェル牢獄へ送られ10月16日午前4時に国家反逆罪がマリーに下され、同12時15分マリーはギロチンの露と消える。何でも。マリーは断頭台に登る時、死刑執行人の足を踏み「ごめんなさいね。わざとではないの。でも、靴が汚れなくて良かった。」と言ったとか。コレがマリー最後の言葉となったらしい。落ちたマリーの首を抱え、群衆は「フランス万歳!」と叫んだそうな。

前述のクシャルスキーの描いた喪服姿のマリーの絵が切ない。頬はこけ、明らかに痩せてしまい、覇気もない。背景は牢獄の壁だろう。かつて、王宮の華やかな世界にいた、誰もが憧れるお姫様の生活をしていた女の子の最後の絵がこれだ。(コレが、実際、最後の最後に描かれた1枚だそうな)ちょっと目に涙が溜まったよ・・・。
『コンシェルジュリを出るマリー・アントワネット』(ジョルジュ・カン)。断頭台へ向かう王妃の絵。周りには群衆がいて、口々に王妃をののしっているのだろう。王妃の手は後ろ手に縛られている。それでも、王妃はすっくと頭をあげ強い視線を投げ、王妃として威厳を保とうとしているように見える。マリーは死ぬ前に「死刑は罪を犯した人間に与えられるもの。私はルイに会いに行くように言われただけ。ただ、子供達を残していくことが心残りだわ。」と手紙に書いたそうな。処刑後、マリーもルイもマドレーヌの共同墓地に他の反逆者と一緒に埋葬されるのだが、王政復古の時、ルイ18世が、サン=ドニ大聖堂に転葬するよう命じたらしく、その様子が描かれた版画の展示もあった。

何かね・・・。切なかった。マリーは確かにおろかだと思うよ。だって、革命が起こった時、こんな放蕩三昧してたのに、「何故、国民は怒っているのです?私は何もしてないのに。」って言ったんだよ。でも、この放蕩もね。王室の権威の為に、キラキラ舞踏会とかやった部分もあるんだ。で、マリーはやりすぎちゃったとは思うのだが、それでも、頑張って「フランス王妃」をやろうと思ってたと思うんだ。で、結果がコレ。お姫様から囚人。そして、処刑。子供も処刑され、残ったのはテレーズだけ。そして、そりゃ、漫画や映画の題材になるよな・・とも思った。あまりに劇的な短い生涯。もし、王妃様じゃなかったら。自由で可愛い女の子でいられた・・・かもね。

お土産は、ポストカード4枚。LED付きルーペと言うのが気になって欲しかったのだが、1500円だったのでやめてしまった(^_^;)。でも、買えば良かったかな。ルーペは欲しいんだよな。

今月18日までやっています。フランス革命好き、ベルばら好き。歴史好きな方も是非どうぞ。
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