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2011年04月28日23:56

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2011.03.11

 3月11日はかなりどうでもいい用事で鶴見に歩いていくところでした。迂闊なことにポータブルプレイヤーを聴いていたので、揺れにまったく気づかなかったのですが、建設中のアパートで作業していた人たちが、
「おいおい、これはすごいぞ」
 と走り出てきてようやくえらいことになっていると知りました。

 地震なんて地面が揺れるだけで大したことないと舐めてましたけど、アスファルトがたわむぐらいに揺れると乗り物酔いみたいになるのか、震動がおさまってからもなんだか気分が悪くなります。
 見ると停電のせいか信号が止まってまして、さすがにこれはちょっと今までの地震とは違うぞと思いました。

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 揺れがおさまると人々が広い場所を求め、車の止められた道路の真ん中に出てきていて、それがいかにも非日常な光景でした。

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 その時の画像を今になってみて眺めてみると、車はきちんと路肩に寄せて止めてあります。阪神大震災のときは路上の車が救援の邪魔になったらしいですから、15年ぐらいなら経験は風化しないものだと思いました。

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 近くで高圧電線の作業中だったらしくて、ものすごい勢いで作業の人たちが降りていっていました。揺れに揺れて死ぬほど怖かったんじゃないかと思いますが、上は意外と揺れなかったのかもしれません。

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 それから、横を通った中学校では生徒たちが校庭に避難して並んでいました。

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 その近くにトレッサ横浜というショッピングセンターがあったのですが、そこも客はみな避難して外に出ており、停電で真っ暗になって非常灯がちかちか光っていました。
 そんなわけで用事を諦めて家に帰ればいいようなものですが、渦中にいると存外に暢気なもので、あくまで鶴見を目指して歩き続けました。停電で店は軒並み閉店でしたけど、コンビニでテイッシュペーパーやトイレットペーパーを買いこんでいる人はすでにいました。いまにして思えばかなり象徴的な光景でした。

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 でも、非常電源のせいか銀行は相変わらず平常営業で、なんかだ感心しました。

 鶴見に着くと駅にはさすがに電気が来ていました。液晶画面に被災地の燃えている建造物が映し出されていて、人々が食い入るようにそれを眺めていました。
 そこでようやく東北は大変なことになっていて、こっちの揺れはそのついでに過ぎないのだとわかりました。その時の自分が事態の矢面に立たされているわけではないという安心感が、自分が最もひどい目にあっているわけではないという安堵とは別物であることを説明するのは、まだ私にうまくできません。

 そういう状況でして鶴見に来てもできることはなにもなく、はなからしょうもない用事だったのでとにかく来た道を帰ることにしました。
 駅に電気は来ていましたが、電車は止まっています。
 ちなみに、近隣の店は閉まっていましたが、そういう場合のマニュアルでもあるのか、駅で足止めを受けた人のために椅子をすべて表に出して、お茶や水を出したり、毛布を貸し出しているところまでありました。
 バスは動いていましたが、直後はともかく、電車に乗れなかった人が殺到してすぐ満員になっていたので、歩いて帰りました。
 帰途には、ショッピングセンターも営業を再開していると思っていたので、なんか買物でもしようかと寄るつもりでしたが、相変わらず閉まったままでした。というか、トレッサ横浜はその後、一週間ぐらい営業を再開しませんでした。
 鶴見川を渡ったら、橋の上に新幹線が止まったままになっていて、なんだか不思議な光景でした。

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 鶴見の方では地震の2時間後には電気が復旧してまして、港北も大丈夫だろうと思っていたのですが、ぜんぜんダメであわてて懐中電灯を買いました。
 電気は止まっていましたが、水とガスは来ていたので、とりあえず問題はありませんでした。もっとも給湯関連は電気が必要らしくて、お湯はでなくなっていました。
 暗くてやることもないので、とりあえず寝ようとしていたのですが、神経が昂ぶったのか眠れないまま23時半ごろに電気も復旧して、そのまま適当に寝てしまいました。

 なんだか、タイトルは椎名誠をもじって『哀愁の街に放射能が降るのだ』とかにしようかと思いましたけど、さすがに不謹慎すぎますよね。ええ。

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