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2010年09月06日17:53

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帆船日本丸/横浜みなと博物館

このクソ暑い中、『横浜みなと博物館』に行きました。数回、脳貧血を起こしかけました。それくらい暑い!!
チケットは、毎度お馴染み、新聞屋さんからの貰い物〜。新聞屋さん。いつも、いつも有難う。同じチケットで、横浜みなと博物館に停泊・・ってか、保存してある、帆船日本丸にも乗船出来ます。動かないよ。船内見学が出来るだけ。

日曜日に行ったので、「混んでたらイヤだなぁ〜」と思ったら、そんなに混んではなかったです。流石に、この暑い中、博物館に行く奴は、そうそういないのか。中華街が近いから、皆、そっち行くのかも知れない。横浜自体、観光地だから、見るところ沢山あるもんね。博物館。チビッコが多くて、たまに、大声で叫んだりしてましたが、まぁ、許容範囲ですな。チビッコですから。

『横浜みなと博物館』。何か、地味〜な、資料館的なモノを想像していたのですが、そうではなく、船舶のシュミレーションがあったり(子供に大人気!)、船舶を動かすゲームがあったり、色々試行錯誤のあとが見られました。何でも2010年(今年だ)に、展示をリニューアルしたそうな。それまでは、所謂、資料館だったのかもね。

横浜って、埋立地なんだね。で、江戸期。横浜村の頃、野毛山に隔てられていたので、船が重要な交通網として発達したそうな。

弁天船ってのがあった(模型展示)。少ない人数で動かせる船らしい。所謂『千石船』のコトみたい。千石船なら知ってる!

押送船と言うのもあった。江戸期の高速船らしい。浦賀奉行所の御用船だってサ。コレも模型展示がある。

で、中に入ったら、はい、出た、ペリー!1854年、ペリー提督、横浜へ来航ですよ。で、何か、港のジオラマがあって、ペリーを探せ!みたいなコトをやっていた。
ペリー自体も、「コレ、妖怪だろ!」みたいな絵が沢山残っているが、副将も、天狗のように描かれていた。鼻の高い外国人は、当時の日本人からは天狗に見えたんだろうな〜。

ペリー提督の日記があって、コレが面白い!
『仕官や、乗組員は、(村の人達に)ひじょうに丁寧な扱いを受けた。いずこも同じ喫煙具とお茶が出て来る。琉球とは異なり、女性が逃げ出すようなことはなかった。好奇心の方が、どんな権威や恐怖心よりも勝っていたのだ。』

もう、コレよ、コレ!日本人のミーハー感覚!そして、所謂「和をもって尊しとなす」と言う、親切精神!!
日本人って、今も「ミーハーで自分がない」とか言われたりするが、コレ、昔っからだからね。だから、言われた人「そんなの、飛鳥時代から変わりません!」って言ってやったら良いと思う〜。
黒船来航の時も、テンパったのは、幕府だけ。庶民は「うわぁ〜、何か、遠くから、面白い恰好をして、面白いモノ沢山持ってる人が来た〜」って思って、食べ物なんかを、乗組員にあげていたそうな。で、逆に乗組員は、外国の珍しい雑誌や、お菓子などを、村人にあげてたらしいよ。

ペリーさんの絵があったケド、もう、鬼や天狗みたいな描き方のもある。あんまり白人さん馴染みがなかったんだろうな。江戸期で鎖国してたから、出島にオランダ人来るくらいか。

で、黒船ブームになるんだが。この黒船の絵もスゲエ。もう、伝説化しちゃって、「絶対、そんな船ねえだろう!」って言う、乗り物になっちゃってるんだよ(^_^;)。
何か、獅子っぽいのついてたり。遊園地の乗り物か!みたいになってる(笑)。因みに。黒船って呼ぶより、最初は「アメリカ船」って呼んでたみたい。

黒船が来た理由もパネル展示になっていた。産業革命でアジア進出を目論み、食料、飲料水などの補給なども考え、18Cから、ロシアやアメリカの捕鯨船が、ちょくちょく、日本近辺にも来てたらしい。あ、産業革命と捕鯨の関係は、鯨の油とる為ね。
で、日本は、最初、頑なに「毛唐になぞ、国は開けん!」と言っていたのだが、中国の阿片戦争のコトがあって、テンパっちゃって、イキナリ「開けても・・いいか。」ってなったらしい(^_^;)。この辺りも、今の日本とあまり変わってねえ!(爆笑)
因みに。黒船が来ることも、実は1年くらい前から予想はついてたみたいなんだ。各所から情報が来て。でも、何とかなるかなぁ〜って言って、対策先延ばしにしちゃったらしいよ。で、結果、コレ。この辺りも、今と変わらん!コレ、国民性なのかもね。

で、1854年に、日米和親条約。1858年にアメリカと修好通商条約を結ぶ。

でね。外国人商人は、居留地以外での商売は禁止だったらしいのだが、結果、日本は、不平等条約を結ばされちゃっているから、商売も外国人に有利に働くようになっていて、トラブルが多発したそうな。

モノの流通の仕組みも書いてあり、生糸は、八王子−町田−横浜と宿場を通って来るらしい。

で、横浜は、港が出来て行くワケですが。開港当初は、航路は全て外国会社が独占してて(まぁ、不平等条約の関係で仕方なし)、やっと、明治29年に、遠洋航路を日本独自で開くようになったそうな。

で、そろそろ出て来るかな〜と思ったら。あったあった〜。移民です。夢の国、ハワイやアメリカで一旗上げるぜ!な移民。大ブーム。
1904年〜05年北米への移民ピークだったらしい。
移民宿って言うのがあったんですよ。横浜には。沢山。その宣伝の資料も展示してあった。
手続きの間の数週間、移民希望者は、そこに泊まるんだケド。私、知らなかったのだが、体の検査(身体検査)から、消毒、買い物、書類の制作まで、移民宿は、そういうコトを一手に引き受けていたのね。ブローカー兼宿兼旅行会社って感じ。

移民へのススメみたいな宣伝パンフレットがあったのだケド、船代いくらとか、諸々書いてあって、どうやら全部で139円くらい必要だったらしい。今で言うと、どれくらいだろう??139万とか?もっとかな。結構な額だと思う。

で、有名な赤レンガ倉庫ってのが横浜にはあるんですが。アレって、元々保税倉庫だったんですね。

昔の赤レンガが展示してあったが、もう赤くはなかった(^_^;)。

で、大桟橋を作るってのがあるんだが。コレ「へぇ〜」って思ったのだが。この大桟橋。1883年下関事件で、日本が支払った賠償金が戻って来たので、それを元に大桟橋を作ったらしい。賠償金って、戻ってくるんだ!(てか、戻って来るコトもある・・が正解だろうケド)
スクリューパイルの展示ってのしてた。

で、はい、ここで、関東大震災!震災で、横浜港も大打撃!元々埋立地なので、大被害になっちゃったそうな。生糸と織物は、横浜港の独占だったのに、その輸出も、神戸に取られてしまい、港大ピンチ!で、「こりゃマズイ!」と思った、横浜のお偉いさんたち。何と、2年で港を復興させたらしい。
震災のガレキの捨て場になった場所は今は有名なデートスポットになってますよね。ど〜こだ?そう!山下公園!なので、私は、あそこに行くと、いつも「この下、震災のガレキなんだよなぁ〜」って思うの。

で、横浜は、船も鉄道もあって、商工業がバンバン発展して行きます。有名な工場バシバシ立つよ。芝浦製作所とかね。

面白いのは、その時代、その時代に活躍した、船の模型も展示してある。

ここからは、今度は客船の時代になるのだが。豪華客船には、和室つきの船もあったんだねぇ。『あるぜんちん丸』は901名も乗れたらしい。で・・・デカイ・・・。
又、その客船のパンフも面白い。夢の外国へいらっしゃい〜みたいな感じで。

で、そんな幸せな時代もあれば、ここから太平洋戦争になったりもする。外国航路は当然休止。港は軍事用になる。客船も軍艦にされたモノもあったみたい。

で、日本は戦争に負け、今度は、横浜は外国人に接収される。ホテル・ニューグランドは、将校宿舎になったらしい。現在も、瑞穂埠頭はアメリカ軍に接収されたままで、今も「返してくれ」と日本側は言ってるそうな。

当時、網に囲まれた外国人居住区では、華やかな情景が見え、日本の貧しさが対比され、際立ったそうな。その頃の写真があったのだが。本当に、外国の町みたいだった。看板英語だし、いるのも外国人ばかり。

こんな諸々があった関係で、ハマの文化も生まれ、文化的には発展。『横浜がテーマになった曲』紹介コーナーが面白かった。レコードジャケットが展示してある。『ヨコハマ・たそがれ』とか。『ブルーライトよこはま』とか。『ヨコハマ・チーク』とか。で、何曲か聴けるようになっていた。『恋人も濡れる街角』と『ブルーライト・ヨコハマ』と『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を聴いてみる。
♪横浜じゃ今〜、乱れた恋が出来る〜(あ、横浜出て来た) ♪街の明かりがとても綺麗ね、横浜〜(冒頭から横浜!) ♪ちょっと前なら覚えちゃいるが、3年前だとちと分からねえ。髪の長い女だって?ここには沢山いるからね。ところで・・・アンタ、あの娘のなんなのさ?港のヨーコ。ヨコハマ・ヨコスカ〜(コレ、流行語になったんだよ) 

ハマの文化はいずれも、恰好良く、外国っぽい。
私は、横浜が舞台って言うと、『あぶない刑事』だな。「タカ」「ユウジ!」 あんなに、拳銃バンバン撃ちまくるお巡りさんはいません!!でも大好きだった。今も好き。

このコーナー。小洒落たバーっぽい作りになってたのも笑った。子供も多いから、何とか、興味をもってもらおう作戦だな。

で、1961年。ここからは高度経済成長期に突入!
はしけ(住める舟みたいなモノ)の暮らしを紹介していた。船の乗組員の人とかがそうやって暮らしてたみたい。でも、台風の時はどうしたんだろう??

で、ここから先はタンカーの模型があったり、コンテナの説明があったりした。コンテナって、あんなに沢山種類あるんですね。6・7種類あったよ。タンクコンテナとか色々。

私、知らなかったのだが。埠頭も物凄く種類があるのね。塩専用埠頭とか、青果専用埠頭とか(通称バナナ埠頭って言うらしい)、自動車専用埠頭とか。
自動車専用埠頭のビデオ見たのだが、専属の自動車を積み込むドライバーの人がいて、運転の技術力が半端ないの。狭い船内をぶつけず、速く、綺麗に走り、ピッタリと所定の位置に駐車する。思わず「スゲエ〜」と言ってしまった。
自動車専用埠頭は、自動車を置くために広いスペースがあるってのも聞きゃ当たり前なんだが、「あぁ、そうか。他の埠頭より、スペースいるのかな?」とか思った。

あと、豪華客船の模型もあった。今は、船旅は、飛行機より豪華ですもんね。
何か、動くホテルだよね。デカイし。

結構面白い展示内容だったので、オススメです。人もあまりいないから、穴場かも。

で、帆船日本丸に乗ろうとしたら。その日、日本丸は、年に15回くらいある、帆を全部広げる日だったのね。ボランティアの人が全部広げているらしいのですが。
で、畳む作業(畳帆って言うらしい)をやっていたのね。で、その間は乗船出来ないらしくて、「まぁいいや。」と思って、レストラン入って、その作業見ていたんですが。
アレ、凄いね!だって、1番上の帆まで、人上って、人力で畳むんだよ。ねずみ(だったかな?)って言う、縄梯子みたいなのがあって、それで上って上まで行くの。高いよ〜。
で、起用に捲いていた。掛け声をかけていた。危ない作業なんでしょうね。

私、この船が何の船か良く分からなかったのだが、1930年に公立商船学校の航海訓練の為に作られた船なんだそうです。新しいのが出来たから、お役ゴメンになったらしいのだが、壊すんじゃなくて、ここに展示するコトにしたらしい。

中に入ってみた。おう!狭いぞ。暑いぞ。
船員は6人部屋の狭いベットで寝たみたい。で、寝心地を体験ってのをやってみたが・・・。狭いのだが、私、狭いところ好きなので、落ち着いて良かったって言う(^_^;)。
あと、船長室は流石広かった。その代わり、船上の全責任は船長にあります。万一、転覆した場合、船長が最後まで船に残るって聞いたコトあるよ。先に乗組員を全員おろし、「自分は、この船とともに、命を終える覚悟です(敬礼!)」くらいの責任感がないとダメなんだって。
その代わり、部屋は豪華。お風呂も付いてる。でも、水が貴重だから、お風呂は週に2回、海水風呂だそうだ。ボイラーで沸かすらしい。

ちゃんと、医務室もあって、手術台もあった。あと、船医の部屋もあった。船医は、無線で来た、船医が乗ってない船で起こったトラブルにも対応したりしてたらしい。

レーダーとか、機材も面白いね。見ても良く分からないケド、コレに映るのかな?くらいは分かるので。

結構楽しいので、皆さんも行ったときは、乗船してみて。

今回は結構お土産を買ってみた。日本丸メモ帳とか、クリアファイルとか。ミニタオルとか。
でも、ポストカードはあんまりなかったなぁ。

外に出たら、相変わらずの暑さ。ちょっとクラっと来た。
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