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日記一覧

8:00に発車するはずのバスが、時間になっても姿も見えない。もうチケットは買ってしまっている。不安になり、キップ売り場のおじさんに訊いてみるも、またも要領を得ない。どうも奥地に入るにつれ、中国語を操れる人が減ってきているような気がする。寒さ

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天草・歴史の幻影ー65富岡城跡は鎮道寺から近い北方の岡である。私たちはその本丸跡へ登っていった。古い石段が切れ切れに続いている。 廃城の崩れ残った石段というのはしみじみとした感懐をそそる。この山、この土塁、石垣に突撃をかけた天草一揆勢の鬨の

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10月3日 徳格で振ったさいころの目は・・・上海を出てから、10日くらいしか経っていないけれど、日に日に朝が寒くなってきている。徳格の朝も、ひどく寒かった。顔もろくに洗わずに、とりあえず支度と言えば、成都で買っておいたプラスチックの筒(水筒

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天草・歴史の幻影ー64砂嘴の尽きたところ、富岡の山麓に真宗(一向宗)の鎮道寺がある。勝海舟の落書で有名な寺だ。勝は富岡に二度上陸し、鎮道寺に宿泊した。そして、二度とも本堂の柱に落書している。最初は安政四年(一八五六)で  日本海軍指揮官勝麟

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色々あったがとにかく、徳格にたどり着けた。ドーッと音を立てて流れる川と、そこにへばりつくようにして建っている安宿、あとは例によって山。見たとこ、取り立ててな〜んにもない、地味な街だ。顔見知りになったチベタンに世話してもらった安宿は、小便臭い

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天草・歴史の幻影ー63●山陽詩碑と鎮道寺 海中に緑を盛り上げている富岡城趾の山・太古の島と志岐の海岸をつないでいる長洲の上に、富岡の町屋が並んでいる。 私たちの車が停まったのは、その細長い洲の東側で、目の前にいかめしい碑が立っている。 「頼

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10月2日 ひさびさの移動。自分ではどうしようもない気持ちも、おんぼろバスが次の街へ運んでくれる。知らない街へ行けば、不思議なくらい、自分も新しくなれる事を、知っていた。4,000m級の峠越えくらいだったら、もう吐き気を催すことも無くなって

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天草・歴史の幻影ー62今、私たちはその供養塔の前に立っている。角のないすんなりした墓碑の形が、何となく物悲しげな女性の立姿を連想させる。 碑の頭部中央に「(左が八に臼、右が鳥)」という字が丸いみぞ彫りに囲まれている。この文字の読みも意味も分

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私はいつゾンボがやって来るか、そればかり気になって眠れなかったが、結局、ゾンボは来なかった。寝坊したのか?だいぶ酔っていたみたいだし・・・それにしても、ローファンユンが「ゾンボはまだ寝てるよ」と、確信を持って言っているのもヘンだ。まさか、ロ

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天草・歴史の幻影ー61島原の乱終了の三年後、天草は幕府の直轄地となり、初代代官として幕臣・鈴木重成が赴任してきた。彼は島原の乱に松平信綱に従って参陣し、一揆戦の惨状をつぶさに目撃していた。また乱の原因が松倉、寺沢二領主の悪政にあったことを知

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10月2日 いよいよ甘孜を後にすることに。一応日記の日付は変わっているが、昨日のまま眠れずに、起床時間4:10になってしまった。本当に色んなことを考えた。ふと、ローファンユンの住所を教えてもらってない事に気づいた。ゾンボに訊こうか・・・?い

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天草・歴史の幻影ー60次の巡礼地は富岡の千人塚。これは単なる記念碑ではない。ここには三千三百余の首が実際に埋められていた。 寛永十五年(一六三八)原城落城の際、斬首された一揆勢の首が、長崎、有馬、富岡に三分され、それぞれに首塚が作られた。碑

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あまりにあっけなく行ってしまったので、私は一言も声を発する事が出来なかった。一緒に外に出ようとすると、ゾンボに「座ってていいよ。」と止められてしまった。ゾンボが外まで見送りに行った。私は、二階のテラスから、二人の姿が見えなくなるまでボー然と

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天草・歴史の幻影ー59繁るにまかせた広葉樹の枝が大きく覆いかぶさって、場所柄、陰惨な感じを深めている。写真をとるにも邪魔である。この様子を見て、車に戻った北氏が鎌を持ってきた。その用意の良さに驚いたのだが、彼はさっさと大きな枝を切り落とし、

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ドゥンドゥク・ゴンパあのチョルテン(仏塔)は八月に落成したばかりなのだと、ゾンボが説明してくれた。何も無いところに、チョルテンだけがぽつん、と建っていた。観光名所としてはちょっと寂しい所だ。私が仏教徒だから、ということでゾンボはわざわざ連れ

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天草・歴史の幻影ー58 志岐について言えば、画学舎(美術工芸学校)の設置が元禄元年(一五九二)。イタリア人、ジョバンニ・ニコラオが指導にあたった。西洋画法による聖画、銅版画、オルガンなどの楽器類、時計までもここで制作された。 「天草四郎陣中

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全く、何もしない一日。バックパッカー用語に「沈没」という言葉がある。ある場所にやってくると、突然に、その先に移動するのが億劫になってしまったり、その場所にずっぽりとハマってしまって抜けられなくなる事を指すのだが、チベットならラサ、ネパールな

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天草・歴史の幻影ー57彼のキリシタン援助も入信も、南蛮貿易の利を引き寄せる手段に過ぎなかった。交易船は来た。が、ポルトガル商人にとって志岐は相手として不足だった。トラブルもあったようだ。南蛮船が志岐に姿を見せたのは、これが最初で最後となった

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それにしても標高3,300m、富士山9合目で酒をしこたま呑み、強い中国タバコをばかばか吸って、雨の中歩いて帰ってくるなんてキチガイ沙汰だ!チベタンも、中国人と一緒でお酒もタバコもどんどん勧めてくる。ハッキリ言ってツラかった。高山で酒を呑むと

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天草・歴史の幻影ー56●南蛮船の入港 話を志岐に戻して。 志岐麟泉がアルメイダの布教を後援し、自らも入信してひたすら待ち望んでいたポルトガル船がようやく志岐に現れた。元亀元年(一五七○)六月十八日であった。交易の利と鉄砲入手が眼目である麟泉

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ドゥンドゥク・ゴンパ行こう!ゾンボと、友達のローファンユンと三人で、てくてく歩こう。朝晩はふるえる寒さでも、日中は日差しが強くて、皮膚が熱い。歩いていると段々汗ばんでくる。街に帰ってきて、少し早い夕飯を安い中華食堂で食べた時、まだ明るいうち

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天草・歴史の幻影ー55豊後の大分では弘治元年(一五五五)、アルメイダが私財を投じて乳児院を開設した。彼が日本における社会福祉事業の祖と言われるのはこのためである。翌年イエズス会に入会して修道士となった。三十歳の時である。 ついで大分に病院を

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いつになったら次の街へ行けるのだろう・・・  次の街に備えて、常に早寝早起き。9月28日 甘孜の日常そろそろ次の街、徳格(デルゲ)に向けて出発しなくちゃ。そう思ってはいるのだが・・・昨日の夜ゾンボに、「明日もまだ居るなら、もう一つの寺、ドゥ

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天草・歴史の幻影ー54●アルメイダとは 天草にはじめてキリスト教をもたらし、天草の使徒と呼ばれるルイス・デ・アルメイダとはどういう人だったのだろうか。彼の略歴を記すと。 アルメイダは一五二五年にポルトガルのリスボンに生まれた。青年期に医学を

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