本稿533で、ブラディー・マリーを作ったJohn Bolster(ジョン・ボルスター)の奥様(最初の)がBarbara Skinner(バーバラ・スキナー)だったと書きました。SUキャブレターの製造元Skinner Union Co.,Ltd.(スキナー・ユニオン株式会社)の創業者で代表のGeorge Herbe
前回、見えないほど小さい原子が「見えた!」という話を書きました。約1億分の1cmですよ、見えない筈のモノが見えたんですね。このことから2019年4月にブラックホールの撮影に成功した、というニュースを思い出しました。ブラックホールは見えないモノの代表
イギリスで高級車の売買をしている知人が「すごくオリジナル度が高い1937年式BMW328、アメリカの富豪が売りに出しているよ。買わない?たった60万ドル。レースパーツがたくさん付いてくるよ」というメールを送ってきました。ンな高級車、買えるワケないやろ!
まだ丸坊主アタマだった頃、物質固有の化学的性質を示す最小の粒子は分子だと習いました。その分子を構成しているのは複数の原子だと。下図は酸素原子1個と水素原子2個が化学結合して水の分子を形づくっているイメージです(実際の原子はこのような球体ではあ
1888年、28歳のÉlie-Victor Buchet(エリー=ヴィクトル・ビュシェ)は、パリ近郊のLevallois-Perret(ルヴァロワ=ペレ)に照明器具製造会社Société Buchet(ソシエテ・ビュシェ)を設立しました。同社は1899年にバイク用の汎用空冷エンジンの製造
認知症克服に粉骨砕身されているある脳外科医が「リアルな空想をして脳を柔軟に使うことは認知症の予防にとても効果があります」とコメントしていました。ボクの年齢(63歳)では発症率は低いのですが、ボケないに越したことはありませんから予防になると聞くと
本稿0062にてイギリスのモーター・イラストレーターGordon Crosby(ゴードン・クロスビー)が描いた「MGガール」について触れました。この若い女性は実在したKitty Brunell(キティ・ブルーネル)という人です。https://share.google/LKXQm77uJfaScPmGk15歳の時に
少し古いデータ(2022年度)で申し訳ありませんが、厚生労働省は、65歳以上3603万人のうち、認知症の人は443万人(12.3%)、軽度認知障害の人は559万人(15.5%)と公表しています。合わせて1002万人(27.8%)、実に3.6人にひとりに認知機能の低下が見られることになり
黎明期のクルマは吹きっさらしでしたが、暫くすると風雨からパッセンジャーを守るために布製のソフトトップが付けられました。そして1905年、GM(General Motos)がより雨露をしのげる硬い屋根(ハードトップ)を持つキャデラック・オセオラ(Osceola)を試作しまし
独り暮らしでミニマリスト(本稿0133)を標榜する東京在住の知人が「古稀(70歳)になったからシルバーパスで地下鉄もバスも格安。クルマ売っちゃって便利なトコに分譲マンション買お」と言って、品川区大崎または五反田で中古の小さな分譲ワマンションを探してい
イギリスでクラシックカーの売買を行っている知人が「チョッとスゴいクルマを取り扱ったよ」とメールを送ってきました。フェラーリ212です。1947年に創業したフェラーリが1950〜53年に約110台のシャシーを製造した初期の傑作です。https://share.google/W0Cxf
数年前「洗剤の原料には石油が含れているが、石鹸は100%自然由来の油から作られる」と聞いた際、台所の食器洗いを洗剤(P&GジャパンのJOY)から石鹸(CO-OP 台所用せっけん)に替えました。https://share.google/Mo1Bi2RqX5adKzPWO
https://share.google/iz
過去3回、本稿でStanley Harold Arnolt(スタンリー・ハロルド・アーノルト)がプロデュースした、ベルトーネ・ボディのイギリス車を見てきました。彼は「動力性能が良く見た目も良い」クルマをアメリカで販売したのですが、個人使用するベントレーにもベルトー
4回目の番外編をお許しください、政治に関する個人的見解です(政治や宗教は人によって考え方が様々なので、ジャーナリストではないボクは普段書くのを控えています)。何が何でも飲食料品の消費税を無くしたい高市総理が意固地に見えて仕方ありません。8%をゼ
紅茶のリキュール`Good niight tea´で晩酌を欠かさない友人がいます。炭酸水で割るそうです。ヤツは酒が弱いです(笑)。https://share.google/ZaktMgbZcDRhSRssG彼が先日「息子のゲロルシュタイナーが冷蔵庫にあったので、それででハイボール作ったら、いつも
1952年のトリノ自動車ショー(イタリア)にて、アメリカのStanley Harold Arnolt(スタンリー・ハロルド・アーノルト)は、イタリアのカロッツェリアBertone(ベルトーネ)の2代目社長Giuseppe Bertone(ジュゼッペ・ベルトーネ)に面会しました。その際「厳選したイ
本稿0127で信号機の色について書きましたが、ほかにも以前から疑問に思っていたことがあります。それは「どうして日本の信号機は横型なのか?」ということです。サラリーマン時代に海外の街々を訪問する機会に恵まれ(南米を除く)、概ねどこの信号機も縦型だっ
1950年代前半、アメリカ・イリノイ州シカゴの実業家Stanley Harold Arnolt(スタンリー・ハロルド・アーノルト)は、イギリス車のシャシー/エンジンにイタリアのボディを被せたヨーロピアン・テイストの小粋なクルマを計画しました。クジラのように大きくダルな
イギリスの歴史家にRonald Fraser(ロナルド・フレイザー)という人がいます。スペイン内戦研究の第一人者である彼の著書に`In Hiding - The Life of Manuel Cortes´というのがあります。https://share.google/Sy9RKKYdRNHLbE8Jr「壁に隠れて - 理髪師マヌエル
1952年のトリノ自動車ショー(イタリア)に赴いたアメリカ・イリノイ州シカゴの実業家Stanley Harold Arnolt(スタンリー・ハロルド・アーノルト)は、Nuccio(ヌッチオ)の愛称で知られたベルトーネの2代目社長Giuseppe Bertone(ジュゼッペ・ベルトーネ)にスポーツ
物価高の折、趣味にお金を掛けないようになった友人が何人もいます。ゴルフを止めたとか旅行に行かなくなった、食べ歩きを控えるようにした、などなど。そんな友人達の中に泥団子にハマっているヤツがいます。https://share.google/2sYrcCJKXwPjhxoBpソイツ曰
「GPに純イギリス(車体、エンジン、ドライバー、マネジメントなど全て)のレーシングカーチームを送り込もう」という強い気骨で1933年に創業されたE.R.A.(English Racing Automobiles)。1930年代中盤、今日のF2に相当するボワチュレット(小型軽量車)クラスの各
エネルギーを生み出す夢の技術、核融合が現実味を帯びてきました。各国がしのぎを削る中で、アタマひとつ抜け出しているのが日本と言われますが、核融合ってどういうモノなんでしょう?「昔からあるやん、ホラあちこちにある原発」- ちゃいます、それは核分裂
本稿0238でシュタイア50を採り上げました。水平対向4気筒984cc(27馬力)を動力とする、最高速度60km/h(遅!)と発表されたRR(リヤエンジン・リヤドライブ)のこの小さなクルマは、Ferdinand Porsche(フェルディナント・ポルシェ)の薫陶を受けたKarl Jenschke(カ
しばらく前にフランスのJanatという老舗ブランドの紅茶をいただきました。「ジャンナッツ」と発音するようです。https://share.google/ktJ4CZYPJ2CPtRenJアールグレイ(柑橘系のフレーバーティー)のティーバッグですけど、これ旨いんです。チョッと香りを付け
ずいぶん前にGN(VITESSE=ビテスという高性能モデル)をアルミ板でスクラッチ・ビルドしたことを思い出しました(全長30cmほど)。実車はこんな↓感じ。思いきりデフォルメしました(細かい部分は作っていません)。それほど好きなGN、これまで本稿ではそのスペシ
1988年9月、インド人のSalman Rushdie(サルマン・ラシュディ)が1980年に著した小説、THE SATANIC VERSESがイギリスで出版されました(英語)。https://share.google/kcuv8zo5OEGV4Xy6Wその内容がイスラム教を冒涜しているとしてイランの最高指導者ホメイニ師(当
1888年にフランス・バリ南西のベルサイユで生を受けたJacques Bignan(ジャック・ビニャン)は、1911年から第一次世界大戦が始まる1914年まで自動車用の機械部品を製造販売していました。大戦中は砲弾などの軍需品を製造してフランス軍に貢献し、1918年に平和が
2026年2月28日、アメリカはイランに対する大規模な軍事攻撃を開始しました。最高指導者ハメネイ師を殺害したばかりでなく「文明を滅ぼす」とまで言ったこの侵攻、アメリカはイランの核開発をどうしても止めたいようです。このことてナイラ証言を思い出します。2
本稿0500にて、豊川順彌が1912(明治45/大正元)年に白楊社という自動車会社を創業し、入念な準備を経て1924年6月〜1927年10月に527台のオートモ号を生産したことを記しました。この純国産乗用車開発の原動力になったのは、1918(大正8)年から8年間白楊社で主任