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日記一覧

【関東軍 脱出行動後の動き】関東軍司令部はソ連に対する全面戦争を即断した。敵をせん滅する為、満州国に配備された全ての重砲と、第7、第2、第4、第8師団を、第6軍に投入する事に決めたのである。装甲戦力や砲撃力、航空戦力においてはソ連が 優勢で

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【ソ連軍大攻勢 クライマックス】前回からの続き8月20日、ジューコフのいた中央集団は日本軍の抵抗にあって450〜1400mしか前進できなかったが、日本の前線中央に加えた攻撃が功を奏し、小松原は両翼を攻撃する事が出来なかった。イリヤ・アレクセ

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関東軍の下剋上と東京の参謀本部との対立。7月20日、東京の参謀本部は新京より関東軍参謀の磯谷中将を呼び寄せた。ノモンハン事件での軍中央の考え方を詳しく説明し、指示を与えるのが目的である。軍中央部は関東軍にハルハ河東岸の防御陣地を維持させ、政

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関東軍の7月再攻勢。関東軍は何故敗北したのか?地形の制約が大きく、しかも兵站支援が適切ではなかったことがその一因である。しかし主要な敗因は、5月28日の戦闘の場合と同様、やはり軍事情報取集の失敗に求められる。今回もまた敵の戦力を著しく過小視

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関東軍の7月攻勢戦場になったハルハ河の現在を敷衍した写真6月下旬、第23師団と安岡戦車部隊はハイラルから将軍廟を経て、ノモンハン方面に向かった。あらゆる種類の車両が投入されたが、兵士と装備を一度に輸送するには十分ではなかった。そのため殆どの

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1939年6月5日早朝ジューコフ一行は、第57軍団(第57特別任務軍団)の司令部が置かれてい居るタムサクプラグに到着した。ジューコフはその日の午後、ハルハ河近くの戦闘地区の視察を行い完了した。ジューコフは忌憚のない意見をモスクワに伝えた。そ

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1939年5月28日の戦闘。関東軍の主力である第23師団(小松原中将)の作戦地区は起伏に乏しく視界を遮るもの殆どない、戦車戦に向いた土地である。しかし、相対的には、師団は機動力に乏しく、この地形に適した兵器を欠いていた。ハイラルからノモンハ

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