mixiユーザー(id:21015697)

2017年08月06日22:04

1739 view

本野精吾邸一般公開レポ日記。

フォト

今年の京の夏の旅、文化財特別公開に立命館大学の側にある本野精吾邸が一般公開されると知り、本日見学に向かいました。
本野精吾は大正から昭和初期にかけて活躍した建築家で、モダニズム建築の先駆者として知られています。
本野精吾の家族は父親が読売新聞創業者、兄が外務大臣、4代目読売新聞社長、京都帝国大学教授というエリート一家でした。
本野精吾は東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、関西の戦前の建築界のボスともいえる武田五一の招きで京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授となりました。
そのため、西陣織物館(現・京都市考古資料館)を除いてほとんどが京都高等工芸学校に関わる建物を設計しており、京都工芸繊維大学3号館・旧鶴巻邸(元京都高等工芸学校学長邸)(※いずれも現存)などが代表作として知られています。
フォト

この本野精吾邸は自身の邸宅として大正13年に建てられたもので、当時としては先駆的だった中村鎮式コンクリートブロックにて建てられています。
本野精吾邸は20年前、見に行ったことがあります。当時はほとんど知られておらず迷いに迷ってたどり着いた本野邸は前庭が草木で覆われ門からちらっと建物が見える程度。しかも当時はご子孫が住まわれていたためあまりジロジロ見ることできず写真を何枚か撮影して立ち去りました。
あれから20年ぶりに訪れた本野邸は住まわれなくなった代わりに文化財指定を受けて隣に住むご子孫が大切に保管され、前庭に蔓延っていた草木も取り払われて門からよく見えるようになりました。
今回初の一般公開ですが、20年前はまず見学できるとは思いもよらなかったこの機会に感慨深いものを感じました。
フォト

門の表札。煉瓦の門柱にタイルで「本野」の表札が作られた洒落たもの。当時の物です。
フォト

本野邸の玄関。一部煉瓦が使われていますが、建物本体は中村鎮式コンクリートブロックを用いたもの。中村鎮式コンクリートブロック、通称・鎮ブロックはL字型をしたコンクリートブロックで、建築家・中村鎮が考案しました。中村鎮は本野精吾と交流があり、京都事務所を本野邸の隣に建ててます。これに関しては後述します。
フォト

本野精吾邸1階内部。大正時代の建物とは思えないモダンさ。
フォト

 1階窓。本野邸の特徴は天井が低いこと。これは2階へ通じる階段を緩やかにするため天井を低く抑えたことによるものですが、逆に部屋に圧迫感を与える弊害も。そこで本野精吾は窓の開口部を広く取り、腰板部分も低くして開放感を与える設計をしました。
フォト

1階の暖炉。暖炉の金属の板には葡萄のデザインがされています。
これも本野精吾のデザイン。本野精吾は客船の内装のデザインもしていたそうで、他にドアノブやネジ式鍵のつまみにも洒落たデザインが施されています。
この暖炉、良く見たら奥に焦げた後や煤がついていて、実際に暖炉として使用されていたようです。
フォト

階段部分も全く装飾の無いデザイン。
フォト

フォト

2階内部。こちらは1階以上に窓の開口部を多く取り、2階からの眺望を考慮されているようです。
フォト

一旦外に出て本野邸の裏へ。こちらは南面。勝手口玄関の上にベランダがあります。
フォト

その傍らにある睡蓮池。聞くところによるとこれも当時の物らしいとか。この池も本野精吾の設計でしょうか。
フォト

本野精吾邸の裏面。20年前ではます見ることが叶わなかった場所。
壁面に植物の痕がついてます。近年の整備で取り払われた跡なのでしょう。
フォト

その裏手に小さな小屋があります。最初は燃料とか入れてる小屋だったのかなとも思いましたが(昔の小学校とかにはこういう感じのコンクリートブロックの灯油倉庫があった)
フォト

なんとトイレでした。機能性を重視した本野精吾が、どう考えても不便な外に離れのトイレを作ったのは意外でしたが、トイレの建物も一貫してコンクリートブロックというこだわりを感じます。
フォト

今回初めて本野精吾邸を見学するという機会に恵まれ、まだまだ装飾的なデザインが多かった大正期において先駆的なモダニズム建築として建てられたこの本野邸は90年以上経っているとは思えないモダンさでした。
フォト

さて、先ほどの本野精吾邸の南隣に白い洋館があります。最近の建物のようにも見えますが、壁面を良く見ると本野邸と同じサイズのコンクリートブロックとおぼしき目地が。
INAXREPORTの本野精吾の特集には、本野精吾邸の隣にあった中村鎮建築研究所京都出張所の古写真があります。
http://inaxreport.info/data/INAX171_04_14.pdf
※INAXREPORT本野精吾特集(pdf)
この写真を見ると、屋根や南側の増築や窓の改修等の改変はありますが、窓の配置や庇などはまさに古写真と同じで、中村鎮式コンクリートブロックで建てられたこの事務所は、本野精吾が設計した可能性があり、大正13年築の中村建築研究所が現存していることになります。
フォト

また、20年前に本野邸を見るためこの場所を訪れた際に偶然見つけた古い洋館。
本野邸・中村事務所の1件飛んだ南の十字路の角にあったものですが、当時は京都の建築に詳しい人から中村鎮建築事務所と聞かされていました。
しかし、ツイッターでの指摘や本野邸でのスタッフさんの話やINAXREPORTでこの建物の正体が判明。古城鴻一という京都高等工芸学校の教授の邸宅だった建物で、やはり中村鎮式コンクリートブロックによる本野精吾が設計した可能性があるという建築。大正13年12月完成という本野邸・中村事務所とともに同時に建てられた形となります。
この旧古城邸は恐らく2000年前後に取り壊されて現存してませんが、かつてはこの狭い通り沿いに3つの中村鎮式コンクリートブロックのモダニズム建築が並んでいたことになります。建築時期も同年に3件一度に建てられたことから、本野精吾は自邸を含め自身が進めていた中村鎮式コンクリートブロックでのモダニズム建築住宅による新たな街並みをも実験的に造ろうとしていたような気がしました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する