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鬼県令 三島通庸子爵

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詳細 2015年11月17日 02:05更新

鬼県令・三島通庸子爵閣下を顕彰するコミュニティです。

三島通庸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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三島 通庸(みしま みちつね、1835年6月26日(天保6年6月1日) - 1888年(明治21年)10月23日)は、日本の武士・薩摩藩士、内務官僚。子爵。通称は弥兵衛。県令時代は、住民の反対を押し切り強引に土木工事を進める手法から、「土木県令」や「鬼県令」の俗称で呼ばれた。

生い立ち
薩摩藩士・三島通純の長男として生まれる。三島家は代々藩の鼓指南役の家柄であったが、通庸は飽き足らずに示現流を学ぶとともに伊地知正治より兵学を学んだ。寺田屋事件に関与して謹慎を命じられるが、のちに藩主島津忠義によって人馬奉行に抜擢され、鳥羽伏見の戦いでは小荷駄隊を率いて活躍した。戊辰戦争後は藩政改革に参加し、民事奉行や日向都城の地頭など不平士族等を治める功績を残し、これを見込んだ大久保利通の計らいで新政府に出仕する事になる。

東京府職員(参事)から教部省(大丞)を皮切りに、酒田県・山形県・福島県・栃木県の各県令、内務省土木局長(県令と兼任)、警視総監を歴任した。東京府にて銀座煉瓦街建設の大任を果たした。1887年、維新の功により子爵を授けられた。

山形県令
1874年(明治7年)に酒田県令に就任する。着任早々の課題は、ワッパ騒動と呼ばれる農民抗議への対策であった。これは、旧藩時代からの県令や官吏が、中央の布告を無視して旧藩時代同様の税と労役を課したことに対する農民の反抗であった。三島は官吏を全面的に更迭するとともに、農民に対しては弾圧で臨んだ。翌年、裁判により過納金を農民に返すことで騒動は決着した。

酒田県は1875年(明治8年)8月に鶴岡県になり、翌年には山形県・置賜県と合併して山形県となった。三島は新たに鶴岡・山形県の県令に就任する。山形における政策の中心は、道路・橋梁整備と公共施設の建築であった。江戸時代までの山形地域は、日本海と最上川を経由する舟運により、江戸よりも大坂と強く結びついていた。しかし明治時代に陸運が重視されると、陸路による東京までの交通整備が進められた。

1880年(明治13年)に米沢、福島間に萬世大路(万世大路)こと栗子街道を、1882年(明治15年)には山形、仙台間に関山街道を完成させた。この両道は、馬車が通行可能な規格で作られた。こうして山形県の産物が陸路で福島や仙台に出て、ついで奥州街道や鉄道による東京への輸送路が確立した結果、県経済は活況を呈した。三島は、他にも隣県に通じる車馬通行可能な道路をいくつも建設した。栗子山隧道(後の栗子トンネル)、関山隧道(関山トンネル)等のトンネル工事、多数の橋梁工事が行われた。また、羽州街道の酢川(現:須川)に石造の常磐橋を作った。これらの道は現在の国道になっている。

建築では、県庁・病院・学校などを当時としては大きな規模で多数作った。現存するものに旧済生館病院本館(重要文化財)・旧東村山郡役所・旧東田川郡役所、現存しないものでは山形県庁舎、鶴岡の朝暘学校などがある。これらは擬洋風建築で建てられたが、作業に従事した棟梁たちがその後も形式を踏襲したため、東北地方には多数の擬洋風建築が存在することとなった。三島は洋画家高橋由一を援助し、自らが作らせた建築物や都市の景観を絵に描かせて業績を誇った。

三島は人民に対しては傲岸な態度で臨み、強引な課税や労役賦課、寄付金強要を行なうなど、批判に対しては弾圧一辺倒であった。

福島県令
1882年(明治15年)、自由民権運動を推進する自由党勢力が盛んな福島県に県令として着任して弾圧を開始した。越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道(会津三方道路)を建設を推進し、建設のための重税や労役を義務付け、また道路用地を収用などの負担を強いた。道路は完成したものの、陸運の中心が鉄道に切り替わったために街道整備は時代遅れになっていたが、道路建設は自由党弾圧の口実になった。三島は帝政党を作って自由党との対決を激化させた。自由党の首領・河野広中は激発を戒めたが、ついに福島事件で逮捕・投獄された。

数々の弾圧
栃木県令時代(1884年)、自由党員が三島の暗殺を謀った加波山事件が起こった。このことからも、三島による弾圧がいかに自由民権運動にとって障害となっていたかを窺うことができる。

1887年(明治20年)12月25日、三大事件建白運動や大同団結運動など自由民権運動の高揚に対し、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が勅令によって公布されると、警視総監として即日施行した。当時の首相伊藤博文は条例に反対であり、内務大臣山縣有朋も消極的な態度であったものの、三島は条例を積極的に推進していたとされる。弾圧の対象人物に尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、星亨などがいた。

那須野ヶ原の開墾
地方の開墾に熱意を示し、栃木県那須野ヶ原の肇耕社(後の三島農場)を開設した。弥太郎を社長、親交の深い部下14名を株主として入植者を募集して開墾に従事させた。現在の那須塩原市三島に別荘を構えた。当時の区割りが現在も残っており、古くからの住人には開墾当初の入植者の子孫が多い。近年設置された那須野が原博物館の敷地には、開墾に必須であった那須疏水も再現されている。

塩原御用邸の献上
栃木県令時代の1884年、三島は塩原街道を開発整備し、同時に塩原に別荘を構えた。1902年、皇太子時代の大正天皇は初めて塩原を訪れ、三島別荘等に遊んで温泉や風光に感銘を受けられた。これを契機として1904年、三島子爵家は別荘を献上して「塩原御用邸」となり、主に避暑のため愛用された。1948年に厚生省所管の厚生施設として下賜され、現在の跡地は国立塩原視力障害センターとして利用されており、旧御座所のみ移築されて「天皇の間記念公園」(栃木県有形文化)として公開されている。

通庸の死
1888年(明治21年)夏、警視総監在任中の三島は病に倒れた。そして同年10月23日、見舞いに訪れた多くの部下・友人たちに見取られこの世を去った。在任中に死去したのは三島のみである。葬儀には1万2千名が参列し、青山墓地に埋葬された。入院から死の当日までの見舞い客、葬儀・1周忌の参列者まで一人ひとりの名前が記録されている。

家族・一族
二女峰子は大久保の次男牧野伸顕に嫁いだ(牧野伸顕の娘雪子は吉田茂に嫁いでおり、従って麻生太郎は来孫にあたる)。長男彌太郎は第8代日本銀行総裁、三男の弥彦は1912年開催のストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック代表選手として参加。孫の通陽は第4代ボーイスカウト日本連盟総長を務めた。

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開設日
2010年6月5日

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カテゴリ
学問、研究
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