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樋口 季一郎

樋口 季一郎

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 1889年兵庫県南淡町生まれ。1907年18歳で岐阜県大垣市の樋口家に養子に入る。1909年に陸軍士官学校卒。1918年陸軍大学校卒。そして陸軍入隊とエリートとして順調に昇進していった1937年満州の関東軍に特務機関長として赴任しました。

 1933年にドイツにナチス政権が誕生。そして1935年、ユダヤ教徒でなくても祖父母4人のうち3人がユダヤ人であった場合はユダヤ人とみなすという「ニュルンベルク法」を制定されました。該当した者は、市民権を奪われ生活に制限が加えられる。1938年11月にはポーランド系ユダヤ人青年によるパリのドイツ大使館員狙撃事件が発生。ドイツ政府はますますユダヤ迫害政策を強化した結果、ドイツ系ユダヤ人の難民が大量発生しました。ドイツからポーランド、ロシア、そしてシベリア越えて、満州国に流れ込んでくるユダヤ人難民もいました。


 しかし、難民を受け入れる国は少なく、ユダヤ人に同情的だった英米でさえ、入国を制限していた。難民のドイツ脱出がピークに達した39年には、ドイツ系ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号が、英国、米国での接岸をそれぞれの沿岸警備隊の武力行使によって阻まれ、結局はドイツに戻って、大半が強制収容所送りになるという事件も起きている。 こうした中で、当時の日本政府もユダヤ人難民に対する方針を明確にする必要に迫られ、39年12月に5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。その内容は、ユダヤ人排斥は日本が多年主張してきた人種平等の精神と合致しないとして下記を決定。
・ 現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。
・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
・ ユダヤ人を積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。
すなわち招致も可という3つの方針を定めたものであった。


 第一次大戦後、戦後処理を行った「パリ講和会議」(1919年1月18日開会)において、米国ウイルソン大統領は、世界秩序回復の為の14か条を提唱した。しかし、この会議には、実は日本の代表団が提出した、「15番目の提案」があった。それは、「国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべき事」と言う提案であった。法案提出の事情には唯一有色人種の国家として人種的偏見によって不当に扱われるのを避ける狙いもあった。しかし、1919年当時では、「人種平等」の提案は画期的であった。事実、当時アメリカで人種差別と闘っていた、「全米黒人新聞協会」は、「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」とコメントしている。しかし、この法案の投票結果が17対11で賛成多数となると、「全会一致でなければならない」として、「不採決」を宣言し、日本の提出した「人種差別撤廃法案」を葬り去ってしまった。このように人種平等条項を入れるように提案した事に見られるように、当時の日本の立場からしても、ユダヤ人排斥は当然反対すべきものであった。


 この方針は現実に適用された。当時の日本軍占領下の上海は、ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だった。ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満州のハルピンを経由し、陸路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオストックから、敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートをとった。前者のルートで3万人のユダヤ人を救ったのが、樋口季一郎少将である。 ちなみに、当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していた。42年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポ(秘密治安警察)要員が3度にわたって、上海を訪問している。この事実をつきとめたドイツ・ボン大学のハインツ・マウル氏は、上海にドイツと同様のユダヤ人強制収容所を建設する事を働きかけたと見ている。しかし日本側は居住区を監視下においたが、身分証明書を示せば自由に出入りできるようにしており、大半のユダヤ人は戦争を生き抜いて、無事にイスラエルや米国に移住した。猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、新たに難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、ここでも
「全面的にユダヤ人を排斥するのは、(諸民族の融和を説く)八紘一宇の国是にそぐわない。」
とした。樋口季一郎少将はこの精神をそのまま体現した人物であったと言える。



「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております。」
流暢な日本語でカウフマン博士は毛皮の外套を脱ぎながら言った。昭和12(1937)年12月、満州ハルピンの夜は零下30度近くまで下がり、吹雪が続いていた。博士は、50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病院を経営し、日本人の間でもたいへん評判のよい内科医であった。大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、反ナチ派の闘士でもあった。カウフマン博士が訪ねたのは、8月にハルピンに赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口季一郎少将である。満州国の主権を守り、満州人の庇護に極力努めるように訓示した。カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して欲しいということだった。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えたいというでのある。樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、ロシアを旅行して、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。樋口は即座に快諾し、博士を励ました。


 翌13年1月、ハルピン商工倶楽部で、第一回の極東ユダヤ人大会が開催された。東京・上海・香港から、約2千人のユダヤ人が集まった。樋口も来賓として招待されたが、部下は身の危険を心配して辞退するよう奨めた。当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。しかし樋口は出席し挨拶した。「ユダヤ人を追放するなら行き先を準備してやるべきである。私は個人的に心からかかる行為を憎む。」この挨拶が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。


 第一回の極東ユダヤ人大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっせいに樋口を包囲した。イギリス系の記者が、ぐさりと核心をついた質問をしてきた。ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知してして、あのようなことを口にしたのか。樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンにやわらかい微笑をかえして言った。日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう。樋口の談話は、それぞれの通信網をへて、各国の新聞に掲載された。関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から逸脱した言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。ユダヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったものであったからであろう。


 昭和13(1938)年3月8日、ハルピン特務機関長・樋口少将のもとに重大事件のニュースがもたらされた。満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、ナチスのユダヤ人狩りからのがれてきた約二万人のユダヤ難民が、吹雪の中で立往生している。これらのユダヤ人は、満州国に助けを求めるために、シべリア鉄道を貨車でゆられてきたのであるが、満州国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできない。食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、凍死者が続出した。彼らは満州国を経由して、上海へ脱出しようとして、オトポールまでたどりついた所であった。


 ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士も飛んできて、樋口に同胞の窮状を訴えた。しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱である。もし満州国が入国を拒否する場合、彼らの進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。然るに「五族協和」をモットーとする、「万民安居楽業」を呼号する満州国の態度は不可思議千万であった。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは滿州国独自の見解でもあるのか。樋口少将は満州国外交部ハルビン代表部とこの問題に関して種々協議し、これは人道上の問題であることに意見一致を見たのであった。なぜ外務部は動かないのか。ユダヤ人問題で下手に動いて、ヒットラーから横やりでも入ったら、関東軍からにらまれるからだろう。「難民の件は決着した。受け入れの準備にかかって下さい」力強い樋口のことばに、カウフマン博士は歓喜した。そして樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交渉を始めた。しかしこの一件で樋口少将はドイツ政府と日本外務省、陸軍省に睨まれる事になる。


 それから2日後の3月12日。ハルピン駅では列車の到着し、カウフマン博士らの手によって介抱され、救われたユダヤ人は喜んだのです。数時間後、樋ロは、オトポールの難民ぜんぶが、ハルピンに収谷されたという報告をうけた。凍死者は十数人、病人と凍傷患者二十数名をのぞいた全員が、商工クラブや学校に収容され、炊きだしをうけているという。救援列車の手配がもう一日おくれたら、これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言っていた。難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていったが、住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見た。


 樋口のユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから強硬な抗議が来た。リッべントロップ独外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきた。満州国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。 かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼすこと甚大である。この要人についてすみゃかに、貴国における善処を希望している。樋口は、関東軍司令部からの出頭命令を受け、参謀長・東条英機(後の首相)に対して「ドイツのユダヤ人迫害は人道上の敵とも言うべき国策である、それに日本と満州が協力するのは由々しき問題である。日本とドイツの友好親善を望むが、日本はドイツの属国ではない、また満州も日本の属国ではないと信じて満州国代表部に忠告した。」と述べた。樋口は、東条の顔を正面から見据えて言った。
「東条参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」
東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、言った。
 「樋口君、よく分かった。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。」


 樋口を待っていたのは、「不問」どころか、参謀本部第2部長への栄転だった。ドイツからの「善処」要求のわずか5ヶ月後に、このような人事を行ったということは、「人種平等を国是とする我が国はヒトラーのお先棒は担がない」という強烈なメッセージではなかったか。出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつくされていた。その人波の中には、数十キロの奥地から、わざわざ馬車をとばして駆けつけてきた開拓農夫の家族たちなどもまじっ
ていた。樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。樋口が駅頭に立つと、いっせいに万歳の声がわきおこった。日の丸と満州国旗とをうちふり、「ゼネラル、ヒグチ!」と、ロ々に連呼しあう。 孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、路面にひざまずいて樋口を拝み、涙をながしつつけていた。 待合室に入ると、カウフマン博士が、白系ロシア人の代表者ロザノフとともにやってきた。ユダヤ人と白系ロシア人は、血なまぐさい暗闘を繰り返していたのだが、樋口が親睦のクラブまで作って、仲介に努力していたのである。 ロザノフは、カウフマン博士の頬に長い接吻をし、巧みな日本語で言った。 これが閣下に対する餞別です。閣下の言葉を忘れず、これから仲良くやっていきます。 樋口が「あじあ」号の最後尾の展望台に立つと、列車は高らかに警笛を響かせて、ゆっくりと動き出した。
 「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ!」
群衆は堰を切ったように改札口を乗り越え、ホームにあふれ出した。あどけない顔をした少年達は銀髪を振り乱し、両手を振り上げながら、あじあ号を追って走り続けた。

 その後、北方守備の責任者であった樋口中将は、海軍の協力で1943年7月にキスカ撤収を成功裏に行った。最初は潜水艦での撤収作戦であったが米軍の攻撃による被害続出で中止。7月16日、1水雷戦隊の木村昌福少将に駆逐艦部隊による撤収作戦を実施するが好天の為に断念。再度、7月29日午前7時に決行。霧で視界がきかない中、電波を頼りにキスカに入港し、守備隊5000名余りを収容無事帰還に成功する。米軍は撤収に気がつかず、上陸作戦決行までの一ヶ月も砲撃を続けた。また停戦後の8月19日まで、北千島を攻撃してきたソ連軍に、樋口は大損害を与え、北海道上陸を阻止したのです。


 終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、連合軍総司令部に引き渡しを要求が来た。樋口の危機を聞いて、ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。その幹部の中には、オトポールで救われた人々もいた。「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」世界各地に散らばっているユダヤ人に檄がとび、樋口救出運動が始まった。世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、マッカーサー総司令部は、ソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に擁護することを通告したのである。 長い歴史を通じて迫害を受けてきたユダヤ人は、それだけに他人から受けた恩義を簡単には忘れないのだろう。ユダヤロビーの初期の活動の一つである。


 エルサレムの丘に高さ3m、厚さ1m、本を広げた形の黄金の碑が立っている。ユダヤ民族の幸福に力をかした人々の恩を永久に讃えるために、と世界各国のユダヤ人が金貨や指輪などを送って鋳造したものである モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、上から4番目に
「偉大なる人道主義者、樋口将軍」
とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。樋口季一郎少将−約6千人のユダヤ人を救ってイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられたた外交官・杉原千畝領事代理とともに、日本人とユダヤ人との関係を語る上で、不可欠の人物である。エルサレムの丘に立つゴールデン・ブックに刻まれた「偉大なる人道主義者樋口将軍」の銘はその証明である。


<補足>
近衛文麿内閣の「五相会議」決定
 
 猶太(ユダヤ)人封策要綱
  昭和昭和十三年十二月六日附 五相会議決定

 独伊両国ト親善関係ヲ緊密ニ保持スルハ現下ニ於ケル帝國外交ノ極軸タルヲ以テ盟邦ノ排斥スル猶太人ヲ積極的ニ帝國ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ之ヲ独國ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度ニ出ツルハ帝國ノ多年主張シ来タレル人種平等ノ精紳ニ合致セサルノミナラス現ニ帝國ノ直面セル非常時局ニ於テ戦争ノ遂行特ニ経済建設上外資ヲ導入スル必要ト封米開係ヲ悪化スルコトヲ避クヘキ観点ヨリ不利ナル結果ヲ招来スルノ虞大ナルニ鑑ミ左ノ方針ニ基キ之ヲ取扱フモノトス
 
  方 針

一、現在日、満、支ニ居住スル猶太人ニ封シテハ他國人ト固様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ

二 新ニ日、満、支ニ渡来スル猶太人ニ封シテ一般ニ外國人入國取締規則ノ範園内ニ於テ公正ニ処置ス

三、猶太人ヲ積極的ニ日、満、支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク、担シ資本家、技術家ノ如キ特ニ利用価値アルモノハ此ノ限リニ非ス



(了)

開設日
2005年11月09日
(運営期間3980日)
カテゴリ
学問、研究
メンバー数
289人
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