このピアニストの弾くバッハ「ゴルトベルク変奏曲」の音をどのように言ったらいいのだろうか。
雪のひとひらは手に触れたり地面につくとすぐに消えてしまうけれど、それが重なってゆくと、うっすらと白が浮かび上がる。こんなに優しく物を包んでゆくものはないだろう。そのような音。
雪が降ると、大変だがなぜかかすかな安心感も生じる。晒されていたものが包まれ見えなくなるからだろうか。心の中の傷や汚れも。
アポリネールには、天使の料理人が空で羽毛をまいている、といかにもパリらしい、洒落た雪の詩がある。これも雪が降り積もったら羽根布団になって包んでくれる、という思いが最後にあるかもしれない。
冒頭のゆっくりしたアリアがまるで、天空から雪のひとひらひとひらが姿を変えながら舞い落ちてくるように感じられる。舞うときの飾りの音は軽やかで明るく透き通って、手の平に着くとふっと消えてしまうのに、いつの間にか心の底に降り積もっている。羽毛のように指先が鍵盤に触れる音から、なにかの拍子にひとひらがまた空の高みに舞い上がってゆくような音まで、無数のタッチがある。
その雪が第15変奏曲のアンダンテで、心の底から少しずつ水になって溶け出す。透明な水に、包み隠されていた傷や汚れが流れ始める。
まるで人生の多くの時間を振り返るような第25変奏曲のアダージョを経て、初めのアリアが最後に戻ってくると、雪空は晴れ上がって日差しがやわらかい。
ところが次に聴き直すと、今度は光と風が絡み合っているように思える。演奏に装飾がふんだんに入れられているのに、それが自然界のもののように旋律線をあやなす。それぞれの旋律線の色がそれぞれに異なってそれぞれに話している。ときどき交わされる対話の余韻。これがバッハが頭のなかで聴いていた対位法だと思わざるを得ない。
そして次に聴きなおすと今度は、緻密に構築されたレースの装飾のよう。そして次に---。無限に多様な世界へ連れていかれる。
米国のマイナーレーベルに録音したのはセルゲイ・シェプキン。録音においては、グレン・グールド以来の最高の作品であると言える。
サンクトペテルブルクに生まれ、1990年にボストンに移り住み3年後にデビューリサイタルを開いたが、日本では殆ど知られていない。
2007年3月2日に初来日し、東京・墨田トリフォニーホールで「ゴルトベルク変奏曲」を弾く予定。
(梅津時比古)
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