ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

『赤備え』〜朱塗の軍装〜コミュの浅利右馬助信種 略歴

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
・信音、式部小輔とも称す。

・浅利冠者与一の裔。浅利伊予守虎在の嫡男。
・八代郡浅利郷領主

・信濃・西上野攻略に活躍。
・天文十五年、信玄から90騎を与えられ侍大将となり、
 後に加えて30騎、計120騎持ちとなる。


・譜代家老衆、下郷起請文奉行




●永禄十二年(1569)
九月、武田信玄は西上野より20000の兵で出陣します。
北条氏邦の鉢形城、氏照の滝山城を攻め、
十月一日には北条家の領国を放火しながら本拠地小田原を包囲。

氏康は同盟国駿河国境に展開していた諸兵を後詰として
武・相州に帰還させ信玄の侵攻に万全の布陣を敷きます。
信玄は十月四日(六日の説も有り)に包囲を解いて甲斐に退却し始めます。

北条氏邦・氏照は武田軍の傍若無人な蹂躙に怒り
十月六日、20000の兵を率いて
武田軍の退路の要衝:三増峠に先行し待ち伏せする作戦に出ます。
小田原からも呼応して氏康・氏政の20000余の軍勢が
武田軍を追撃しました。


▽三増峠合戦(別リンク)


右馬助信種は志田原に後衛左翼として布陣。
殿:馬場美濃守信春、武田四郎勝頼と共に奮戦したが、
追撃軍である北条軍の猛烈な攻撃を受け
北条綱成配下:北条下総守の手の者に
鉄砲で胸を撃たれ落馬・討死した。

合戦は小幡信貞が退路である津久井方面への抑えとして北条軍:津久井城の増援を遮断し、
山県隊5000名は別働隊として反転し、北条軍の右翼側面に高所より突撃した。
北条軍は小田原・津久井の増援もなく、山県隊の攻撃を受けて戦線を維持できなくなり総崩れ・敗走となる。
赤備えの勇戦と地の利を活かした武田軍の快勝であった。

信玄は戦死した信種の墓をこの地に作って供養したという。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


浅利彦次郎は信種の子で父の跡を継いで侍大将となる。
故あって被官・同心の数を減らされるが後に父信種と同じく
120騎持ちとなる。

武田家滅亡の後は家康に仕え、徳川四天王:本多平八郎忠勝の元に配属される。
頃日まで武田の家中にて浅利殿とて諸人尊敬したる武士も、主人の運傾けば今は当家へ参り、
本多平八郎組下になり、松下一党、向坂一党の者共の下座に諂ひ居らるるを常々見哀れに覚え候。

<【岩渕夜話〜本多作左衛門の云】>

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

『赤備え』〜朱塗の軍装〜 更新情報

『赤備え』〜朱塗の軍装〜のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング