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史跡コミュの紀伊国分寺跡

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 和歌山県紀の川市東国分682

 1928年02月07日、指定。
 1988年04月26日、指定範囲を拡大。

 天平13(741)年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出した結果、紀伊国にも国分寺が創建されたが、具体的な創建の記録は残っていない。『続日本紀』天平勝宝8(756)年の条に紀伊国を含む26ヶ国の国分寺に対する法具頒布の記事があるのが紀伊国分寺の文献上の初見で、『日本三代実録』には元慶3(879)年2月22日に「紀伊国金光明寺」が火災により焼失したとあるが、その後すぐに復興したようで、『延喜式』には紀伊国分寺料として20000束の記載がある。
 その後、平安時代後期までは文献上で存在が確認されるが、中世に入ると衰微して文献に登場しなくなってしまう。
 しかし、法灯は廃絶する事無く維持されていたようで、江戸時代に入ると、元和5(1619)年まで紀州藩主だった浅野氏時代には寺領4石5斗、御三家徳川氏時代になると3石2斗が与えられていたとの史料が残る。
 そして寛永4(1628)年に無本寺から根来寺末になったとされ、新義真言宗八光山醫王院紀伊国分寺と名乗る事となった。元禄13(1700)年には現在の本堂〔紀の川市指定文化財〕が再建、寛延4(1751)年に紀州藩寺社奉行の直轄下に入ったとされる。
 昭和48(1973)年から昭和50(1975)年の発掘調査によって寺域が二町四方(約218m四方)と判明し、伽藍配置・規模が確認された。その結果、史跡範囲が拡大され、現在は「史跡紀伊国分寺跡歴史公園」として整備されている。
 伽藍は南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊(コンロウ)・僧房が一直線に配置されており、塔は金堂の東前方に、鐘楼と経蔵は金堂の後方に配置されている。さらに、中門左右から出た回廊は金堂・塔・鐘楼・経蔵を内に囲んで講堂と接続しており、寺の東側は雑舎に当てられたものと推測されている。
 塔跡は一辺16.4mの瓦積基壇上に緑泥片岩製の心礎を始めとする全ての礎石が旧状を保っている。
 本堂は桁行五間・梁間四間・棟高11.7mの本瓦葺重層屋根入母屋造で、外観は二階建てに見えるが、内部は一階である。本堂は創建時の講堂跡に建ち、元々ややずれた位置に建っていたが、平成4(1992)年に講堂基壇中央の現在位置に移築された。
 隣接する紀の川市歴史民俗資料館に復元模型があり、各種の史料も展示されている。

コメント(8)

左;南門跡
中;中門跡
右;中門跡と塔跡
左・中;金堂跡と本堂
右;経蔵跡と本堂
紀の川市歴史民俗資料館の前ではソメイヨシノが満開でした。

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