ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

備後の歴史を歩くコミュの意加美神社 庄原市総領町稲草

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
意加美神社(おがみじんじゃ)
庄原市総領町稲草に鎮座する。

 延喜式に「甲奴郡一座小 意加美神社」と記された式内社である。祭神はタカオカミ神と吉備津彦の二神。「西備名区」甲奴郡稲草村の項に「産社 意加美神社 里俗、オガミ大明神と称す。常町下市にあり・・・式内の社なり。或云、木屋村イガミ谷というところに社あり。是、意加美神社也と。いまだ何れか是なるをしらず。両邨(村)に記す」とあるが、現在木屋地区に意加美神社は見当たらない。また、当社の地名は「彦ノ宮」という。古は木屋村イガミ谷に意加美神社が、また彦ノ宮には、その名の通り吉備津彦が祀られていたのであろう。それがいつの日か彦ノ宮に意加美神社が合祀されたと考えれば納得がいく。広島県神社誌でこの辺りの意加美神社を拾い出して見ると、総領町五箇地区に意加美神社を見つけた。こちらも式内社は当社だと記載されている。五箇は稲草からは約10kmほど北東方向にあるが、「西備名区」五箇村の項に意加美神社は記されていない。

 平成19年3月、当社前を流れる田総川下流域に灰塚ダムが建設された。境内案内板に、「平成11年11月灰塚ダム(建設省)建設にともないこの地に新社殿を造営し、水没地域の各鎮守神社を合祀した」として次のように記されている。

合祀神社と祭神
意加美神社 タカオカミ神・吉備津彦命
大歳神社  大年神
姫宮神社  木花佐久夜毘売
金刀比羅神社 大物主神

境内社 五社神社・荒神社

 社殿再建を担った康和建工(株)のホームページ(http://www.akinet.ne.jp/kowa/)には、この再建計画を次のように紹介されている。「意加美神社統合移転計画 平成11年11月庄原市総領町 平成9〜10(1997〜1998)年 ダム建設により水没する集落の神社4社(意加美神社、大歳神社、姫宮神社、金刀比羅神社)と、集落に散在する小祠を統合した、新境内の総合計画です。総合計画は、澤登(当時近畿大学工学部在籍)が企画し、田村和正建築設計事務所の協力を得て、康和建工が施工しました。修復保存、再生保存、新築等の工事が含まれた総合的なプロジェクトです。鳥居、灯籠、注連柱、神籠石、石碑、水盤等、各社にゆかりのものは、ほとんど新境内に移転され納められました。各社の摂社、末社、および、集落各地に祀ら れていた小祠は、損傷が激しかったために、新しく造りなおして祀っています」

 企画された澤登宜久氏は1999年9月、日本建築学会に「備後意加美神社本殿の建築意匠について」という論文を発表された。その中で意加美神社の本殿は「解体の結果、享保15年(1730)の墨書が見つかり建立年代が判明したが、同時に明治15(1882)年に大がかりな修理が施され、垂木上は、旧材を残していないことが判明した」と記されている。

 建立年代について康和建工(株)ホームページでは、「意加美神社は、延喜式神名帳にもその名を記された由緒ある神社です。その本殿は、江戸時代中期の様式を持つものでしたので、これを補修し、移築して、4社合祀の新本殿にすることを提案致しました。本殿は、解体の結果、享保19(1734)年の造立であることが判明しました」とあり、享保15年なのか享保19年なのか特定できなくなった。また、「ダム建設により水没する集落の神社4社」には意加美神社も含まれている。そして「補修し、移築」とある文面からは「意加美神社もダム水没により遷座した」と読み取れるが、明治31年測量、昭和41年編集、昭和58年修正された1:50,000国土地理院地形図に「彦ノ宮」と記された位置と、現在の地形図の位置とではあまり位置は変わらないから水没したとは考えられない。番地を見ると、かつては「稲草179」であったのが、現地案内板には「稲草205」とあり、多少移動しているようにも思える。建立年代と遷座地については現在澤登宜久氏に問い合わせ中である。

 取り壊されることなく解体修理し移築された意加美神社本殿は、桁行三間、梁間二間の流造である。三方に縁を廻し背面は脇障子で止め、跳高欄を造る。身舎柱は正規の円柱を使い、柱間はヨコ板張り。長押を打ち頭貫で固定し、側面中央の柱上には蟇股を置いて虹梁を受ける。妻飾りは豕扠首。軒は二軒平行繁垂木である。向拝柱は海老虹梁で身舎と繋ぎ連三斗が桁を受ける。内部は見ることができないが、外側で見える範囲は平成9年から10年にかけての新材である。拝殿も新築された。

 水没した大歳神社の社殿は、神輿社として転用され当境内に移築された。「合祀された大歳神社本殿は、江戸時代後期の様式を持つ1間社流造りの建物で、後にその前面に拝殿を付加したものでしたが、よく保存されておりましたので、この社殿を改装し、神輿社として再生・保存いたしました」その他、新築された諸施設として「社務所兼舞殿 舞殿を兼ねた社務所と便所です。中央の屋根の高い部分が舞殿を兼ねています。左端は、内外から利用できる便所にな っています」と康和建工(株)ホームページに紹介されている。

 先祖から受け継ぎ、親しみ暮らした村が水没させられるのはどういう気持ちだろうか。度々水害に見舞われる三次盆地を守るためダム建設が計画され、完成に332戸の家が水没した。その犠牲が三次市を洪水から守り、安定した上水道の確保を保証した。この神社はそうした住民の思いが詰まった神社で、今までに加えて新たな歴史を歩み出した。

写真

左:石鳥居
中:扁額
右:拝殿

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.2.32.137N34.46.45.525&ZM=8

コメント(7)

意加美神社

写真

左:社殿
中:三間社流造の本殿
右:向拝軒下と身舎正面
意加美神社

写真

左:ダム建設に伴い水没する神社をこの境内に遷座させた。
中:大歳神社本殿は神輿社に転用されて保存が叶った。
右:神輿社 一間社流造大歳神社本殿の周囲を一種の裳階で囲った特徴ある建物。そのままの形でここに移築された。
意加美神社

写真

左:手水社も移築された。
中:狛犬
右:狛犬は大正11年6月の建立
意加美神社

写真
地形図

左:現在のもの
右:「彦ノ宮」の地名が記された昭和58年の修正版
澤登宜久氏から質問に対する返答が送られてきたので紹介します。



康和建工株式会社
伝建工学研究所  澤登宜久

前略
弊社のホームページをご覧戴きましてありがとうございます。また、拙稿にお目通し戴きました由、痛み入ります。
 さて、早速ですが、お尋ねのありました、意加美神社本殿の墨書の件ですが、これは「享保15(1730)年」が、正しい記述です。
 面目ありませんが、ホームページの誤りにつきましては、まったく気づきませんでした。私どもの不手際からご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫び申し上げます。
 
 また、意加美神社の旧社地は、道路沿いに、現在地よりもわずかに下流にあります。正確ではありませんが、直線距離にすれば200m程度の距離かと思います。現在は、移転しましたので、ありませんが、その間に、人家は1軒のみであったかと思います。
 案内板に書かれた番地の違いは、そんなことからわずかな違いになったものと思います。
 旧社地は、完全に水没するということではなく、満水を越えた場合、半分ほどが水没するのだということでした。
 そのため、通常は、旧社地も道路沿いに残っており、旧社地であった由の記念碑を建て、公園にしているものと思います。
 最近は、私も訪れておりませんのですが、満水時には水没する旧参道に、石鳥居1基が残されているかと思います。これは、田房川の流域の変化に伴い、河川敷になってしまっておりました旧参道に建っていたものを、旧社地のシンボルになればと思いそのまま残したものです。

以上


澤登氏により建立年は享保15年(1730)と確認できたし、遷座についても納得できました。「満水時には水没する旧参道に、石鳥居1基が残されているかと思います」とあり、このことがついでに新社地の案内板に書いてあれば、もう200mほど足を伸ばしたのにと残念でした。また行ってみましょう。


 
5月3日、再び訪ねて旧社地を確認してきました。澤登氏が言われたとおり、およそ200mほど下流に石鳥居があり、「みんなの平和 旧意加美神社」を刻字された小さな記念碑が置かれていました。そして境内には「表底神社」なる小祠が祀られていました。

写真

左:石鳥居に続く参道の石段はダム建設の伴う道路により寸断されていた
中:現在の田総川
右:旧社地を示す記念碑
意加美神社旧社地

写真
左:旧境内に祀られている「表底神社」
右:旧社地から見える現在の「意加美神社」

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

備後の歴史を歩く 更新情報

備後の歴史を歩くのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。