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お城めぐりしよう!コミュの土塁部 第3弾

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さて、土塁部もはや3枚目に入りました。


「これ土塁かなぁ??」とか
「ぬぉ〜〜!!これじゃ写真に収まらないよ!とりあえず斜面だけでも…」とか
「藪でわかんないよ!」とか
どんなものでも、どしどし投稿しちゃって下さい。

皆様からの投稿を心よりお待ちしています。

トップ画像に写真を載せたいのですが、海苔憎PCが不調で写真が全部消えてしまったので、ご容赦を。

コメント(382)

伊賀北部 服部氏城 単郭平城
服部氏関係は、甲賀に服部城が有りますがこちらの方が藪化されていませんが在住されていますので
遠巻きに見てきました。
元々は三方堀付きの四方土塁の屋敷城だと思うのですが
現状はL字堀と後方池、三方の高土塁が残ります。
服部氏のお城は他にも伊賀に数カ所ある見たいです。
伊賀北部 東服部氏城<仮> 丘城
↑の服部氏城から東へ2km、手力神社の北にあり
構成は丘の先端の南が主郭、北へ2郭、切り通しで
教育委員会では、こちらが服部氏城となっています。
↑から南へ2kmの所にも服部氏城はあります。
写真 1.後方岡が城山です
   2.主郭部の放置されて墓地
【城名】竹島氏城 平城 三方土塁 
【所在地】三重県伊賀市 伊賀上野城から南西に5km位の清水(しょうず)地区 <No.1>
【城名】木津氏城 平城 三方土塁 
【所在地】三重県伊賀市 伊賀上野城から南西に5km位の清水(しょうず)地区 <No.2>
【城名】直居氏城 平城 元々は三方土塁? 
【所在地】三重県伊賀市 伊賀上野城から南西に5km位の清水(しょうず)地区 <No.3>

 <No.4>に神ノ木館が有ったのですか農地の区画整理によって消滅しています。
 現状水田。
【城名】 福喜多将監城 尾根先端の丘城
【所在地】三重県伊賀市  比自山山頂より東500m

北の墓地の道路より川を越えて所ですから見学は楽くです。
構造は後方大堀切の継続で主郭全周堀、切岸の下が二郭だそうですが?
切岸と土塁が綺麗です。

(写真1) 主郭
(写真2) 主郭下の土塁
(写真3) 南空堀、写真の現状ですけど後方大堀切から主郭前方の(写真2)に回って来れます。
【城名】 福喜多将監館 三方土塁
【所在地】三重県伊賀市   福喜多将監城より東南東400m

【城名】 鈴木氏館 三方土塁
【所在地】三重県伊賀市  西名阪道 御代IC北600m
あまり紹介されていない館城です。
北側から来たので(写真1)よくある現状薮、侵入不可能かなぁとがっかりモード入りかけたのですが
南東虎口をみてチューリップ(写真2)
三方土塁の南は深い堀川(写真3)、東もしっかりした空堀付き、北と西は水田で守る形です。
【城名】 箸尾氏館 
【所在地】三重県伊賀市平田

 平田宿の中心のお寺に土塁が残っています。
天空の土塁
【城名】 伊賀 霊山城 山頂山城(766m)
【所在地】三重県伊賀市
このお城ですが構造は山頂に四方土塁の主郭、その下は寺院の伽藍跡が曲輪の様に面で山裾に向かって広がっています。
伊賀上野城から真東にあり、ここから伊賀盆地の北側が一望できます。
地図上でお城探ししていて、地形的にお城の可能性が高かったので調べて見たら
霊山城の記載があったのでお城でいいと思うのですが
各お城サイト、有力ブロガー等が取り上げていませんから疑問も残る所です。
写真 
1.福地氏城近く柘植からの全景
2.山頂、四方土塁の主郭
木陰があちこちにあるので城を枕、土塁を背もたれにしてお昼寝ができます。眠い(睡眠)
綺麗に刈られた芝生が心地いいです。
3.眺望
おらが村の文化財
【城名】越中 小倉の土居 
【所在地】富山県砺波市
(写真)見ての通り、微かに残った土塁にはお墓がいっぱい立っています。
 早朝犬と散歩されていた方に聞くと
「この辺り見ての通り田んぼばかりで、この辺りで唯一認定された文化財だ」と誇らしげに
おらが村の文化財見たいです。チューリップ
歴史、館主は一向宗徒で石山本願寺に馳せ参じた小倉孫左衛門と言う方、この辺りの土豪では?
【城名】尾張 島田城
【所在地】愛知県名古屋市天白区 

尾張守護斯波氏の一族である牧氏の城であったとされます。
室町時代末期、牧長義が織田信秀から小林城を預かり、その時に島田城を修築して小林城の出城としたとされます。
地元で城主は牧虎蔵であるといわれるそうです。

説明板によると、東西76m、南北182mとありますので、規模が大きい城だったようです。
夏の季節は樹木に覆われ見辛いですが分厚い土塁状が東西に40m位ありました。
これが城の北側の土塁だとすると、かつては東西に更に2倍もの長さがあったようです。

名古屋市内の城は遺構が消滅した所が大半ですが、ここは住宅街に土塁が残されていて、とても貴重だと思います。
埼玉県寄居町の鉢形城にある「石積土塁」です。初めて見聞きしたのですが、この矛盾する言葉の組み合わせの例をしばらく思い出せずにモヤモヤしてました。あ、「フルタイムで働くパート社員」だ、とわーい(嬉しい顔)
11.狩野城 平城 元は堀付きの四方土塁だったと思われます。
滋賀県愛知郡愛荘町蚊野
浅井氏の家臣、狩野氏の居城です。
塚ノ越古墳砦 平城(砦)
滋賀県米原市新庄
もともと6世紀の堀付きの前方後円墳だったそうで
水田に浮かぶ島の様だったのでは?
それを掘りこんで土塁を作ったそうです。
近代、北陸自動車道の建設で大半が消滅して残ったのが
写真の状態で土塁のみ確認できます。
.七条城 平城(館)外堀付き四方土塁だったのでは?  堀、土塁
長浜市七条町
四方土塁の二辺の土塁、外堀は残ってそうなのですが竹藪が酷くて残念です。
七条安房守の屋敷城
当地の豪族として野村氏、井関氏、松田氏、中村氏と七条安房守を含めた5人の名前が残るようです。
尊勝寺城 屋敷城 平城 飛び飛びに土塁が残ります。(写真2,3)
滋賀県長浜市尊勝寺町
戦国時代に浅井氏の被官であった大橋氏の居館があり、天文年間(1532年〜1555年)より前に称名寺がこの地に移ってきた。
↑ 写真 何故か入ってないので足します。
考えられる要因ですけど、私の場合PCにて 
例えば 訪問城、土塁、掘り、石碑や別の作業ページのタブ複数立ち上げして平行作業、入力しているんですが
UP送信中(容量のある画像データ3が終わり切っていない状態で)でタブを切り替えているからかも?
画像データが途中切断されて、エラー対応プログラムで画像2が画像3にも転用されている節が
一枠使うのでおまけで上げます。(サブネイル段階での画像確認は問題ないんです)
写真 
1.本来の写真
2.説明難ありで外しましたが中央の林が土塁の残骸、
3.近くのお寺の明らかな土塁ですけどコレは違うのでは?
南速水城 平館城 土塁,堀
滋賀県長浜市湖北町南速水
竹藪の中に土塁の遺構が残存します。
大寺城 平館城 土塁
長浜市(旧東浅井郡虎姫町)大寺町
大寺氏の居城、真証寺の南にある民家脇に「きつね薮」と呼ばれる土塁遺構が残る。
この残骸みたいな土塁の場所が解らなくて2回目の訪問です。
唐川城 平館城 土塁のみ、写真2,3は集落風景
滋賀県長浜市高月町唐川
磯野右衛門大夫の居館
田屋氏館 平館城 案内板、お寺の裏に土塁(写真3)
滋賀県高島市マキノ町沢(長法寺)
田屋氏は北近江・高島郷を支配する土豪で
田屋 明政(生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称は新三郎、石見守。近江国の戦国大名浅井氏の一族(浅井亮政の婿養子)。
浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代(政弘の同母姉)の婿として亮政の養子となった。この時、「浅井新三郎明政」と名を改めている(新三郎は亮政の通称であったものを受け継いでいる)。
だが、後に亮政は庶長子(諸説あり)の久政(海津殿の異母弟)を自身の後継者と定めたため、明政は姓を「田屋」に戻して、身を引いたという。
養父・亮政の死後、京極氏と手を組み後継者の義弟の久政と争ったという説と、家督の移譲が滞りなく行われたため、争いがなかったとされる説(上の争いには明政が関わっていなかったとする)がある。婿養子は、浅井政高。明政の長女は海津局(婿養子・政高室)、二女は饗庭局。
長法寺は天文4年(1555年)に建立されたのがはじまりで、江戸時代の寛文3年(1663年)に田屋(田谷)氏の邸宅跡に本堂が建立されている。
五番領城 平館城 民家に土塁あり <高島七頭>
滋賀県高島市安曇川町五番領
山崎氏代々の居城。
1369年、山崎兵庫頭による築城。
山崎氏は佐々木氏一門・愛知氏の一族で、高島七頭の一角に数えられる。
1572年に織田氏に攻められ、落城。
山崎氏は姓を中村と改めて帰農し、城も廃城となる。
単郭方形の居館で、五番領地区の天満宮から信広寺にかけてが城域とされる。
朽木谷へ向かう街道と高島郡を南北に貫く街道の交差点に位置し、交通の要衝であったことが伺える。
三上 上館 館城 三上城を背にした三方土塁、スロープ土塁付き
滋賀県野洲市三上
写真 屋敷部は現状林で林の中にある東側土塁、西土塁、スロープと土塁
三上 中館 上館西の四方堀付き四方土塁の館城
滋賀県野洲市三上
写真 北後方からの屋敷、正面、右側が土塁と屋敷部
三上 下館 中館西、城山を背にした三方堀付き三方土塁の館城
滋賀県野洲市三上
写真 右土塁と堀跡の通路と左の草が水路、南虎口、東虎口と土塁等
井上館(鏡城) 堀付きの高い四方土塁の屋敷城
滋賀県蒲生郡竜王町鏡
井上館は、築城年代は定かではないが、別名鏡城とも呼ばれ、星ヶ崎城(別名鏡山城)の里屋敷としても利用され、鏡久綱が星ヶ崎城を築いた頃に居城していたと考えられる。井上氏は、佐々木氏の一族と云う説と鏡氏の子孫とする説がある。
近江 徳昌寺城 四方土塁の平城
滋賀県東近江市上羽田町
徳昌寺境内に土塁と堀が残っています。
【城名】土居の内(大淵館)
【所在地】兵庫県丹波篠山市

この地の土豪の畑氏の居館で、県指定史跡となっています。
伊賀や甲賀の館城でよく見られるような方形の土塁囲みで堀もよく残っていました。

八上城などを巡った際に、八上城の近くにありオマケで行きましたが、なかなか良かったです

今も末裔の方がお住まいのようですが、よく整備されており遺構を残して頂き、見学もできて感謝です。
越前 桑原館
福井県あわら市桑原
桑原氏によって築かれた。
写真 風景、堀の名残のアスファルト、土塁の残骸?
   
近江 高野城 台地上の丘城
滋賀県東近江市永源寺高野町
土塁ではなく石塁です。
河岸段丘の丘の上に築かれ、左は崖、右から前方は堀川、後方が山です。
高野屋敷と同じ正方形区画なので屋敷城もしくは寺社城郭かも知れません。
写真 堀川と石塁
 日本百名城にカウントされている足利氏宅跡〔史跡〕、即ち栃木県足利市の真言宗大日派本山金剛山鑁阿寺の土塁です。
 鑁阿寺に隣接する足利学校〔史跡〕〔日本遺産〕も土塁で囲まれています。
 下野国岩井山城(勧濃城)跡の土塁です。
 岩井山城については以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984248428&owner_id=250900
 上総国秋元城の土塁っぽい物です。
 上野国館林城です。

左;惣構え外郭
中;三の丸
右;本丸
上野国小泉城です。

左;三の丸
中;北曲輪
右;本丸

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