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沖縄を考えるコミュの曽野綾子・「ある神話の背景」(集団自決の真実)について

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 慶良間の集団自決をめぐる「大江・岩波裁判」の1審は被告側の全面勝訴に終わったが、驚いた事に原告の一人は「沖縄ノート」を裁判前には一度も読んだこと無く、もう一人は該当部分だけを数回読んだことあるだけという。 この事は、訴訟は原告らの「意思」でなされたものではなかったという事である。それは「靖国応援団の原告代理人」「新しい歴史教育を作る会」など、「自決軍関与説」を否定したい勢力にそそのかされ、援助されて提訴したのである。また、この裁判は実は「名誉毀損」裁判ではなく、大江健三郎に法廷に引きずり出すという屈辱を与えながら、「沖縄戦に関わる歴史認識」を書き変えようとする、一石二鳥を狙った勢力の「意思」に拠るものであったということである。
この勢力の最大の理論的後ろ盾となったのが、曽野綾子の「ある神話の背景」(集団自決の真実)である。

1973年に出版された曽野綾子著「ある神話の背景」の文庫本はしばらく絶版になっていたが、題名を『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック出版)と変えて2006年5月に再版された。
若い頃この本を最初に読んだ時、私はウチナーンチュとして、なんともわびしいような気持ちになった記憶がある。渡嘉敷島住民が集団自決したのは現地守備隊・赤松嘉次隊長の命令に拠るものであり、住民処刑も隊長の命令であると一般に信じられていて、赤松隊長は稀に見る冷酷な犯罪者というイメージであった。しかし、曽野綾子氏は、世の中にこんなにも典型的な極悪人が居るのなら一度は会ってみたいと、野次馬的な興味を持ったので調査に乗り出したという。渡嘉敷島に渡って住民から綿密な聞き取り取材を行い、赤松元隊長とも直に数回会って話しを聞いた。その結果、それまで流布していた島の巡査を通した「住民は自決せよ」との命令は無かったことを立証して、沖縄側戦記の虚構を粉砕したかのように思えたのである。
隊長の自決命令を住民に伝えたとされる安里喜順巡査は、曽野氏の取材に対して隊長命令を否定した上、終戦からその時まで、沖縄戦著述者の誰からも取材を受けたことが無いと証言している。これでは自決命令は虚構=神話でしかなかったのかと思われた。
 遺族補償の問題・外地から引き上げてきた遺族への配慮などで、集団自決は隊長命令によるものとした方が都合がよいから「無いものを在った」と捏造したのか、渡嘉敷住民は遺族保証金欲しさのためにヤマトゥンチュの軍人に濡れ衣を着せたのか?とウチナーンチュの出鱈目さを恥ずかしく思う気分になっていた。
しかし・・・。(コメントに続く)

コメント(53)

曽野綾子が、「ある神話の背景」(集団自決の真実)で明らかにしたものは、『赤松隊長が渡嘉敷住民に対して、「住民は自決せよ!」の命令を下した』という事についての、確たる証拠も証言も見つからなかったの一点のみだと私は思う。要するに「鉄の暴風」をはじめ、ほとんどの渡嘉敷島戦記の「隊長命令に関する部分」に付いてのみ事実に反するという事を、曽野綾子は証明したという事に留まる。この点については、太田良博ら戦記記述者は、確実な裏付けもないままに赤松隊長が「自決せよ」と命令した、と書いた事にジャーナリストとしての責任を問われなくてはならなかった。赤松元隊長は、太田良博らの記述者に訂正と謝罪を要求する権利があったと言える。「あった」と過去形にしたのは、今はもう無いと思うからである。

「自決せよ!」との隊長号令が無かったからといって、あの渡嘉敷住民の集団自決が「軍の強制」或いは「軍の関与」したものでなかったと言えるものではないと、私は何度でも言いたい。 
何故なら、当時渡嘉敷島は赤松隊という日本軍に絶対の支配権が在ったのであり、米軍の攻撃前から軍民雑居の中、米兵の残虐さを住民に吹き込み、米軍の捕虜になる事を禁止し、捕虜になるくらいなら日本人らしく戦って玉砕せよ、と始終言い聞かせて、手りゅう弾も防招兵を通じて渡していた。(あるいは兵事主任・新城真順の証言のように兵器軍曹からも)

米軍の攻撃が激しくなってきたに拘わらず、赤松隊は特攻を取りやめ、山の陣地に引っ込み、持久戦と称して、自分らが生き延びる方向へ体勢転換した。そして、巡査をして、住民を軍陣地の近くの盆地に集めさせ、米軍の砲撃に晒す事になった。その結果、捕虜になる事も許されない住民は追い詰められ、集団で自殺するしか選ぶ道は無かった。
なぜ、赤松は住民を軍の近くに集結させたのか?軍が守ってやろうという意思からではあるまい。ばらばらに各壕に避難している住民を米軍の捕虜にさせない為だったのである。住民は一ヶ所に集まらずめいめいの壕に居れば、自決の起こる確率は少なくなって生き残る確率は相当に高くなったはずである。これで、自決せよの号令は掛けなかったからといって、赤松嘉次隊長に「集団自決」に対する責任はないと言えることなのか?

曽野綾子は、赤松隊長の「号令的な自決命令」は無かったことを、現地調査のかなり前から情報として得ていたに違いない。この事を切り札として、赤松隊、ひいては沖縄戦における日本軍の責任を無化し、名誉回復を目論んで執筆に取り掛かったのだ。
やっと読みました。
印象としては曽野さんが赤松隊長の弁護士として,都合のいい尋問をした本という感じを受けました。
「鉄の暴風」の記述に問題があったことは確かで,それを解き明かしているとは言えるでしょう。
でもこれだけで赤松隊長に罪がないと結論するのは全然無理ですね。
裁判で片方の弁護士の言うことだけ聞いているようなもの。

特に気になったのは肝心の手榴弾がどういう経緯でわたったかというところが,しごくあっさりとスルー
されている点です。1番のコメントでキー坊さんが書かれていることを読まずに本書を読んだ時点で
そう思いました。
>Andyさん
「ある神話の背景」(集団自決の真実)を読んでくださって、(私が言うのは変ですが)有難うございます。また、コメントを有難うございます。

本文にも書いたとおり、私が30年前この本を読んだ時は、アナタのように冷静にこの本を眺める事が出来ませんでした。隊長命令が完璧に否定されたように思って、沖縄人として恥ずかしかったです。が、それだけに今は曽野綾子に対する恨みは大きいです。

私から見れば、曽野綾子は赤松隊長の弁護士どころか、母親ではないかと思えるほどです。何でもかんでも、純真無垢な我が子には罪は無いのだと言わんばかり、犠牲になった沖縄の住民には仕方ないのさと言わんばかりで、許しがたいものです。

「手榴弾」の件は、曽野綾子のアキレス腱でしょう。
曽野綾子著・「ある神話の背景」(集団自決の真実)は、文章が分かりやすくてテンポ良く、読む者を自分の世界に引きずり込む調子の良さを持っている。それだけに、内容について予備知識の無い読者はよく読み込まない内に、妙に説得させられる感じになると思う。「小泉劇場」ならぬ「曽野綾子劇場」である。

山崎行太郎氏は、佐藤優氏との対談で次のように語っている。「曽野綾子は大江健三郎の解り難い技巧的な文体を、田舎者の文体と批判しているらしいですが、まったくわかっていませんね。曽野綾子は、文芸批評的に言えば、悪しき意味での、文体感覚の欠如した『美文の人』と言うべきで、当然ですが、曽野綾子には『作品』と呼べるような代表作がありません。」

私は作家の文章を評価する眼など持ち合わせてないが、おそらく、山崎氏は本質を見抜いていると思う。欺瞞に満ちた「ある神話の背景」(集団自決の真実)をじっくり読めば、なるほど、曽野綾子はそういう文筆家なのだろうなと納得する気持ちになる。
「ある神話の背景」(集団自決の真実)の最初の欺瞞は、隊長命令説を最初に発したとされる「鉄の暴風」について、執筆者の太田良博は直接体験者でない宮平栄治・山城安次郎の二人からの「伝聞情報」に基づいて隊長命令を書いたのだと決め付けている事である。宮平栄治からはそれを否定されているのに、強引に「伝聞」とした。
太田良博は、12年後(1985)の沖縄タイムス紙上の太田・曽野論争でこれを否定している。曽野綾子にインタビューされた時は、誰から取材したか思い出せなかったので、宮平と山城の名前を最初の情報提供者として出したのであり、彼らから取材したとは言ってない、と「伝聞」取材を否定した。

渡嘉敷島の戦況については、元村長の米田(古波蔵)惟好・元校長の宇久真成ら直接体験者から、座談会の形式で聞き取り調査をしたと言っている。曽野綾子のインタビュー時になぜ思い出せなかったかというと、取材から25年も経っていたし、鉄の暴風は、3ヶ月の期間に数え切れないほどの戦争体験者に聞き取り取材し、本に掲載したものはその内の極一部でしかなかったから、その時は思い出せなかったのだ弁明している。

太田良博は曽野綾子に、宮平栄治と山城安次郎から取材したとは言わなかったと伝聞取材を否定し、宮平栄治も曽野に、取材を受けた覚えはないと否定したのに、なぜ、曽野綾子は簡単に、隊長命令説は伝聞取材に拠る、と決め付けたのだろうか?そういう前提がほしかったからであろう。
「ある神話の背景」(集団自決の真実)で、曽野綾子は赤松神話の発信源となった記録が三つあるとして、次のものを挙げている。

1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』1950年刊
2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』1953年編
3)渡嘉敷村、座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』時期不明

これらの三つの記録には、偶然とは思われない長い文章の一致があって、三つの内の一つを真似て他の二つが作成されたと推測し、検討した結果、1)2)3)の順に作られた物だとし、1)の『沖縄戦記・鉄の暴風』が「伝聞」によって書かれた後に、それを引き写して2)は書かれ、さらにそれを引き写して3)が書かれたに間違いなく、「赤松神話」は直接体験者でない者からの伝聞で書かれた「鉄の暴風」を元に、渡嘉敷村の公式記録に模写されたのであったとする。
つまり曽野綾子は正確でない記録によって、「隊長命令説」がデッチ上げられたのだとしている。この事は後の、援護金をせしめるための意図的創作であっと、島の人間と沖縄のジャーナリズムを告発しているのである。

しかし、2)と3)は、渡嘉敷村の米田唯好村長・元防衛隊員の屋比久孟松ら渡嘉敷島の戦争経験者が執筆・編纂しているのである。直接体験者が、そうでない者の書いた記録を引き写す事があり得るのか?1985年のタイムス論争の際、太田良博は村長ら直接経験者から取材したといっている。
米田唯好村長らは、「鉄の暴風」は自分たちの証言を元にして書かれているから、その文章を真似たのである。安易といえば安易だが、プロが書いた文章を、文筆が達者でない村人が真似たことに何の疑惑があると言うのか?むしろ、「鉄の暴風」は自分たちが証言したとおりの事を書いているので、村長らはそのとおり真似したと言えるのである。

1)の「鉄の暴風」は、曽野綾子にとって、「伝聞」で書かれた疑わしい記録でなければ、その後の論理展開が都合よく行かなかったので、無理やりに宮平栄治などの体験者でない人物から取材で「隊長命令」をでっち上げたのだと「でっち上げた」のである。とんでもない詐術というしかない。

1973年に「ある神話の背景」を刊行して、沖縄の人間に大きな打撃を与えた後、曽野綾子はこの勝利に鼻高々となったのか、いろいろな機会に、或いはS論、S君などの雑誌でこの本を振りかざし、沖縄侮蔑の発言を繰り返している。例えば裁判員制度などを審議する諮問会で、次のような高飛車な沖縄非難発言及び大江健三郎非難をしたりしている。

 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
全体を無視して ただ一点だけ。

「私はこれまでの人生で、絵に描いたような悪人に出会った事がなかったので、もし本当にそういう人が現世にいるなら是非会ってみたい、と考えたのが作品の出発点であると。」《新版(集団自決の真実)の前書き》

と本当に書かれたのならば、私がその書かれた人物ならば、「絵に描いたような悪人」という表現で、名誉毀損したいくらい腹が立つけどな。

つまり赤松隊長?の名誉を毀損してるのは、そもそも、曽野綾子なんじゃないかと私は感じます。

だって軍令でやっちゃったことに、悪人も何もないでしょう?
軍令もなくやったのならば、戦争でもないときにやったのならば、そこまで貶められても(絵に描いたような悪人呼ばわりされても)しょうがないけど。

だから戦争ってのは、そういう非道なことをさせるひどいものだった、って言うことなんじゃないかと思うよね。悪人かどうか、っていう個性の問題なんかに矮小してほしくないよ、って私が赤松なら思うね。

ていうか善人なら否定できたのか?
そういういい人か悪い人か、っていう問題なのか?軍人になるってことは?
人殺しをする仕事なんだよ、戦争の駒になるってことは。

なんか 曽野綾子、論点ずれすぎ。
skyさん
曽野さんに言わせると「絵に描いたような悪人」というのは大江健三郎が「罪の巨魁」(ママ)と書いたことを指しています。だから大江健三郎を提訴したわけですね。で,この部分については既に「罪の巨塊」と全く違う意味で書いたものを誤読しただけだ,ということでほぼ結論が出ているように思います。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118

この誤読が明らかになった時点で,集団自決の真実がどうであったかとは別に,大江裁判自体はほとんど意味を失っているのではないでしょうか。

また,「集団自決の真実」の中では集団自決以外の様々な殺人(例えば投降をうながしに来た人たちを殺したことなど)についても検証(というより,赤松隊長の意見を一方的に聞いている感じ)していますが,そこでは軍隊なのだからしょうがないといった理由で正当化しているように読めました。
>kyさん。
コメントをどうも。

「鉄の暴風」では、「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである」
と記述されています。これを曽野綾子は、「絵に描いたような悪人」という表現だとしているのです。
もし、これが事実で無いなら、「鉄の暴風」は虚偽を書いた事になって、赤松隊長に対する名誉毀損になります。が、しかし、これが事実でないとしても、住民を集団自決に追い込んだ「赤松隊長の責任」「軍の強制」という事は否定できない事です。

まだ、「集団自決の真実」をお読みになってないようですが、幸い安価な文庫本(ワック・800円台)で再刊されているので、是非お読み頂きたいです。何回か読み返せば、この本の疑わしさが解って来るでしょう。
Andy さん
キー坊 さん

ありがとうございます。
大江裁判の要旨は追っていたのですが、依然として、ソノさんが悪読みをしたことに端を発しているのではないかという気持ちが強く、書き込みをしました。教えていただいた本は、早速読んでみたいと思います。

これを曽野綾子は、「絵に描いたような悪人」という表現だとしているのです。
>そうですね。
決してイコールではないものを、強引にイコールにしているように見えます。作家だから、芸術家だから、言ってもないことを、言ったように聞こえたのよ、と彼女は言うのかもしれません。でも絵に描いたような悪人(とくに「人」の部分)とは、やはり、彼女が初めて使ったモノイイでしょう。そしてそれこそが、言われたら誰だって、かちん、と来る表現でしょう。

裁判でも、大江さんは、戦争というものが引き起こすとてつもない罪の形、というようなことを言っていたと思います。私もそう思います。戦争は、そうやって、人に罪を「行うことを」強いるのです。もともとはじめから悪人(人という部分が、とても重要だと私は感じています。存在としての悪、をソノは言うのです。しかし、大江は行為としての悪、その結果としての死体を指すのです)などいないのです。

悪人でもない、普通の人たちが、悪行を平然とするようにさせられる。それが戦争ではないでしょうか。そのことを表現した作家が訴えられるなど、おかしなことで、そのおかしなことが起きたのは、ソノが、行為としての悪ではなく、存在としての悪を妙に注目するからではないかと思うのです。

人によい悪いはありません・・・と私は思います。どこの宗教の信者がが悪いだとか、どこの民族が悪いだとか、生まれつき存在が悪だとか、そんなことはないのです。すべての人に善があり、なのに悪をしてしまう、させてしまう、強いてしまうからくりに、つまり罪に焦点を当てて人を見ていく・・・そんなことは、キリスト教徒ならできるはずなのに、彼女は存在としての悪に興味を覚えたと冒頭で言っているのです。

悪人がいるのね、わくわく・・・

と。なんて下劣な作家なんだろう、そして視野が狭いんだろうと、あきれ返ってみていた、そんな裁判でした。

ご紹介いただいたものは、できるだけ早く見てみます。ではまた。
>sky さん
>悪人でもない、普通の人たちが、悪行を平然とするようにさせられる。

赤松隊長が生まれつきの冷酷人間とは、沖縄の戦記記述者および大江健三郎も、思わなかったはずです。沖縄戦で軍人としての彼が為した所業(罪)を告発しているのです。
罪を憎んで人を憎まずと言いますが、その場合、その人が罪を悔い改めている時に、被害者は憎むことを止めるのではないでしょうか?
曽野綾子らの渡嘉敷島の赤松隊の免罪と日本軍の名誉復活を企図する勢力と結託して行動した赤松嘉次は、悔い改めたと言えません。渡嘉敷島において多数の住民を集団自死に追い込んだ、軍の最高責任者としての罪を認めて後に、彼が(曽野綾子らの唆しに依らずに)自決命令の有無について、沖縄タイムスその他に名誉回復の要求をしたとすれば、沖縄側の反応も違ってきたのではないか、と私は思います。

>悪人がいるのね、わくわく・・・

本当にこんな動機付けの書き方は、作家として下品な表現だと私も思います。しかも、それは心にも無いうそぶきです。曽野綾子は防衛庁関係者・厚生官僚及び赤松本人から、「自決命令」の証人も証拠も無い事の情報を得て、確信を持って、現地調査と称する材料集めに乗り出したに違いないです。
>Andy さん。

歴史修正派にそそのかされ、担ぎ上げられて大江健三郎を訴えた原告らは、「沖縄タイムス」を訴えるべきであったのであり、大江健三郎と岩波を訴えたこの裁判は噴飯ものと言うしかありません。誤読・誤字の問題以前に、裁判自体が可笑しなものだと、良識ある裁判官なら判ると思います。
だが、反動的裁判官も居るそうだから、上級審での逆転判決も十分ありえると思います。それでも、渡嘉敷島「集団自決」に対する赤松嘉次元隊長の「罪」「責任」つまり日本軍による「強制」が消える事はありません。
歴史修正派にそそのかされ、担ぎ上げられて大江健三郎を訴えた原告らは、「沖縄タイムス」を訴えるべきであったのであり、大江健三郎と岩波を訴えたこの裁判は噴飯ものと言うしかありません。誤読・誤字の問題以前に、裁判自体が可笑しなものだと、良識ある裁判官なら判ると思います。 >

私もそう思いますが、私は何故か、訴えるなら、ソノだろう、という気持ちが常にしています。どこで内密に情報を得たかなど知りません。大事なのは表で何を言ったか、でしょう。

そして表でソノが言ったことといえば、絵に描いたような悪人=兵隊、なのね、それを見に行きたいわ、なんですから。そんなことを言い始めた人と連絡取ってる赤松さんも、相当おかしな人なのかな?wていうか 兵士として国にだまされ翻弄されて、また何十年も立ってから引っ張り出されてまた利用されて。

なんだか靖国で、死ぬ前に利用され、死んでまだ利用される、他の兵士たちみたいですね。

ていうか一回兵士になると、人生丸ごと利用されるコースになっちゃって、軌道修正できないんでしょうか?

命を差し出すとは、そういうことなんでしょうか?

軌道修正して、人を殺すことを正当化しない、国家に利用されるのをよしとしない、自分を大事にする人に戻ってほしいと思います。赤松さん。

独り言ぽくてすみませんが。こんな感じがしてます、この裁判。
>sky さん
またまたコメントを有難うございます。

>軌道修正して、人を殺すことを正当化しない、国家に利用されるのをよしとしない、自分を大事にする人に戻ってほしいと思います。赤松さん。

赤松嘉次元隊長は、28年前に故人となっています。今原告となっているのはその弟の赤松秀一です。
赤松嘉次は渡嘉敷島守備隊長として、3百数十人の住民を集団自決に追い込み、罪の無い十数人の住民を処刑したのです。たとえ自決命令を下さなかったにしても、その責任・罪からは逃れようがありません。彼が「鉄の暴風」などに抗弁できる事は、「口では命令を出さなかった」という事だけです。その事ついてだけ、彼一人で「沖縄タイムス」等に抗議し、訂正を要求すればよかったのです。

しかし、赤松氏は、曽野綾子という国家権力の代弁文筆家の誘いに乗って、自身の全面的名誉回復を計ったのです。これが許されるはずはありません。曽野綾子は三十五年前にこの「ある神話の背景」書いた事により、国家権力に大いに奉仕して、いまや保守論壇の大御所になりましたが、故赤松嘉次氏はさらに大きく、その名が日本人の間に知られるように成ってしまいました。
つまり、曽野綾子およびその背後に在る権力に、使い捨てにされたと言って良いのではないでしょうか。
ある神話の背景」(集団自決の真実)では、赤松隊は、ベニヤ板で造った小型艇に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする「必死の特攻隊」だったから、米軍上陸後の住民の事を考える必要の無い部隊だった。また自分らも死ぬ覚悟だったから、敵に投降した住民を処置(処刑)するのに、さほどの抵抗を感じなかったと言っている。

だが実は、「ある神話の背景」(集団自決の真実)ではおくびにも出さないが、沖縄に配備された陸軍の特攻舟艇は、敵艦に体当たりする必死の特攻艇ではなかったのである。これは副官の知念朝睦も第一戦隊長の梅澤裕も証言している。陸軍特攻艇は、敵艦に当たる寸前で爆雷を投下し、艇は反転して敵艦から遠ざかり爆雷は4・5秒後に爆発するから、生還する可能性の高い攻撃艇だったのである。
事実、阿嘉島の第二戦隊から4隻が出撃していて2隻は消息不明となったが、他の2隻は米艦に損害を与えて、沖縄本島にたどり着いている。その功績は牛島司令官から大いに称賛されたそうである。
また、5月頃になってからだが、沖縄本島の与那原や糸満からも出撃して嘉手納沖にいる米艦艇に攻撃を行い、かなりの損害を与えているが、この時も生還した艇のほうが多かったそうである。(防衛庁・陸軍沖縄方面作戦)

何故に、曽野綾子と赤松隊の面々は陸軍特攻艇が体当たり攻撃艇でなかった事をひた隠しにしたのだろうか?
曽野綾子・「ある神話の背景」(集団自決の真実)で、慶良間の特攻艇が「必死の」体当たり攻撃艇でなかった事を隠したのは、赤松隊が、純粋に、「必死の」覚悟を持っていた事を強調しており、その純粋さを以ってすれば、住民の投降は、当時は日本人として許されざる行為なのであり、あまつさえ米軍の使いとして投降勧告に来た事は処刑にあたいする行為だったとして、自分らの住民惨殺行為を正当化したいが為でもある。

もう一つ、重大な疑惑が生じてくる。それは赤松隊が特攻出撃を取りやめた事に関わってくる事である。
3月25日夜、赤松隊長はいよいよ出撃の決意を固め、艇の3分の1をはん水し、船舶団本部に「敵情判断如何」と打電して、出撃の許可を求めたという。
が、それに対して本部からは、まことに意味不明な「敵情判断不明。慶良間の各戦隊は、状況有利ならざる時は、近在の艦船を撃破しつつ、那覇に転進すべし、那覇港到着の際は、懐中電灯を丸く振れ、船舶工兵これを誘導収容す」という電文が返ってきたという。 
転進とは「退却」「逃亡」の事ではないかと赤松は悩んだ?

特攻舟艇が「必死の」体当たり攻撃艇でないとなれば、この命令も意味不明ではない。慶良間の戦況が、無数の敵艦に囲まれて厳しいものである事は本部でも判っていた事である。
「そんな状況であれば、戦隊は出撃して敵艦に肉薄・爆雷投下・反転の攻撃を行い、撃沈を免れた艇は渡嘉敷には戻らずに、那覇に転進せよ。那覇港では船舶工兵が出向かえて誘導する。」という意味の返電ではなかろうか。
この場合「転進」は、「退却」「逃亡」と同義ではない。攻撃後は渡嘉敷ではなく、那覇に向かえという意味である

この電文の前で、赤松隊長は苦悩する必要などまったく無かった。直ちに命令どおり出撃すべきだったのであり、敵艦の攻撃から逃がれて那覇に到着できた舟艇は、沖縄本島での次なる出撃に備えれば良かったのである。(続く)
なぜ、赤松は直ちに攻撃を開始しなかったのか?意味不明の電文に悩まされて、出撃を躊躇した・・・。
これは無論言い訳である。無数の敵艦の存在を見て、体当たり攻撃無くとも敵の攻撃から免れる見込みは薄いと、死への恐怖が生じたからからに違いない。元々、陸軍マルレ特攻舟艇は「必死の」体当たり舟艇ではなくて、隊員が生への執着心を宿した戦隊だから、イザという場面で圧倒的米軍の数にびびったのである。

「ある神話の背景」(集団自決の真実)では、出撃取りやめの理由を、主に、大町大佐(司令官)の身勝手な怒りに依るものとしている。しかし、それは全て、赤松隊から曽野綾子が聞き取った事に依っているのである。大町大佐は、その後の渡嘉敷から那覇への逃避行で戦死しているから、大町大佐からの弁明は在り様がないのである。曽野綾子の記述は全て、赤松隊の弁護へ弁護へと向かっている。

はん水作業の途中で、基地隊が「ゼネスト」を行って時間を消費させられたのも、出撃不可能の理由になったと、基地隊にも責任を転嫁しようとしている。大町大佐という船舶最高司令官を前にして、基地隊がゼネストを決行できるほど、日本の軍隊は民主的な組織だったのか?
不可思議としか言いようがない曽野綾子の赤松隊弁護ではないか。
久しぶりの書き込みとなった。
山崎行太郎ブログのコメント欄に、集団自決を研究している方からの興味深い情報が寄せらている。http://d.hatena.ne.jp/yama31517/20080625#c1214485034

渡嘉敷島で従軍慰安婦として赤松軍と運命を伴にし、戦後は沖縄に残って、人生の辛酸を嘗め尽くした或る朝鮮人女性を追ったルポ・川田文子「赤瓦の家」の中に、軍夫及び慰安婦2名の朝鮮人20人程を引き連れて赤松隊を脱走し、米軍に投降した曽根清士一等兵にインタビューした内容があるという。
この曽根一等兵については、曽野綾子は「ある神話の背景」の中で、「曽根一等兵のように、軍夫たちをかたらって逃亡させた立場の人に訊いてみれば、又、別の視点があり得るだろう。曽根氏は今も私が会いたいと思っている人の一人である。」と書いていおり、探せない人物のように書いてあったので、私も「幻の人物」かのように思っていた。

さっそく、近所の図書館に行ったら文庫の本棚にあったので、借り受けた。本書は1987年の刊行だが、「曽根氏は40年ぶりに回想し・・・」とあるから、インタビューは1985年(s60年)頃と思われる。85年といえば、太田良博と曽野綾子が沖縄タイムスで論争をした年であり、「ある神話の背景」刊行から12年が経っている。現在からは23年も前の事であるのだが、私が読んだ集団自決関係の本の中に、曽根一等兵に関する詳しい記述が在ったような記憶はない。川田文子の「赤瓦の家」は集団自決を追及したルポではなく、朝鮮人従軍慰安婦の動向を追った作品だから、集団自決や沖縄戦研究者の目に止まらなかったのかもしれない。

曽根氏は陣地立てこもり後の戦況を見てこう考えたと言っている。「勝敗はすでに決している。大本営は一日も早くこの戦争に終止符を打つべきなのだ。(中略)犬死はしたくなかった。今米軍に投降すれば命を落とさずに住む。戦友にもそう呼びかけたかった。」敗戦は必至の考えは、当時の赤松隊の兵士が皆思っていた事だろう。皆敗戦は必至だと思っていたたと想像される。
赤松隊のほとんどは生き残りたいと思っていたのではないか?曽根はそれを敢然と決行したわけである。

この曾根元一等兵の証言を読んでみると、又新たに、曽野綾子「ある神話の背景」についての疑問が湧き上がってくるのである。(続く)
川田文子は、曽根一等兵が率いて逃がした朝鮮人軍夫に混じって、朝鮮人慰安婦が2名いたという元赤松隊員からの証言を得て、曽根氏に会ってその慰安婦2人と軍夫たちの消息を聞いてみたいと強く思った。
厚生省援護課に電話をし、取材目的である事を告げて尋ねたら、援護課は1000名の名簿の中から調べ出して、2日後に連絡先を教えてくれたそうである。

川田は2歳の子供を抱えて、四国に住む曽根を訪ねた。曽根は特に朝鮮人軍夫と深い付き合いがあって、彼らを誘ったわけではなく、本当は、日本人の戦友達の命を無駄したくない気持ちが強く、彼らを誘いたかったが、皇国思想が沁み込んでいる日本人兵士に声掛ける事は、通報の恐れあって危険だった。

脱走して米軍に投降するなら、自分だけでなく、なるべく多くの人間の命を救いたかった。そこで、皇国思想とは無縁の朝鮮人軍夫たちを引き連れる事を思いつき、決行する3・40分前に、日本語の出来る軍夫長に声を掛け、他の軍夫たちを誘わせたそうである。誘いに乗ってきたのは20名余、軍夫服を着た二人の慰安婦も一緒に行かせてくれと来た。

炊事班の食料調達係りだった曽根は、夜間いつもの調達の名目で20名余を連れて、陣地を抜けて、米軍艦の停泊するトカシクの海岸に降り、白旗を振って合図を送ったら、舟艇が寄って来て小銃と手榴弾を取り上げられて、船に乗せられて時、「ああ、助かった」と思ったそうである。それまでは米軍が殺すかもしれないという不安も無くはなかったからである。脱走・投降は成功した。誘いに乗れなかった軍夫の密告は無かったのである。

曽根一等兵は朝鮮人に特別の親近感が有るわけでなかった。日本人戦友の命を救えなかったのがとても残念だという。その後の戦闘でかなり数の戦友の命が失われたのが悔やまれて成らないと。
曽根一等兵はどんな人間の命をも重んじる博愛主義者だったようである。また、米軍が捕虜を虐殺する残虐軍隊だという事も信じてなかった。生きて虜囚の・・・の戦陣訓も関係なかった。軍国日本を覚めた目で見てた数少ない日本兵だったのである。
曽根一等兵は、赤松隊による軍夫の処罰などに付いて、多くを知っているわけではなかった。大城徳安教頭が捕まえられて、スパイ容疑で拷問されている場面は見たそうである。
川田文子の調べでは、朝鮮人軍夫の処刑は2件(6/26・3名.7/4・4名)が認められたが、全貌は知る事が出来なかったという。軍夫については、陣中日誌に詳しい記入が無く、赤松隊兵士も語らないからである。

ところで、曽野綾子「ある神話の背景」には、「曽根元一等兵に訊いてみれば、別の視点があり得るだろう。曽根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である。」(集団自決の真実p284)、と書いてある。
川田文子はそれほどの苦労なく曽根氏を探せたのに、何で曽野綾子は探せなかったのだろうか?言うまでも無く、探さなかったのである。多数の朝鮮人軍夫を引き連れて逃げるくらいの兵士だから、軍夫の事を深く知っているに違いないと予想しただろう。会えば赤松隊に不利な証言が多く出てくると思って、面会を避けたと想像するに難くない。曽根元一等兵は軍夫に関する多くの情報は持ってなかったが、曽野綾子が望むような証言はしなかっただろうと想像できる。

曽根一等兵の取った行動や川田への証言から、他にも曽野綾子の矛盾が明らかになってくる。
曽根元一等兵以下軍夫20名余が脱走、米軍に投降したのは6月30日未明である。直ぐに座間味の収容所に連れていかれて、曽根は軍夫や慰安婦達とは別々に収容されて、それっきり会う事は無かった。曽根は取り調べられて、陣地の情況を訊かれたが、仲間を裏切る事は出ず、口を割らなかったそうである。
脱走・投降は赤松隊では初めての事だった。6月22日の沖縄本島司令部の壊滅が伝えられて、赤松隊は心理的に大きな打撃を受けている所へ、曽根一等兵らの逃走が起きて、隊は正常さを失っていたと川田文子は見る。
2日後の7月2日に、2件の沖縄住民処刑が起こった。一つは捕らえられて拷問を受けていた大城徳安教頭の斬首である。もう1件は、米軍から使わされて投降勧告文を持って来た伊江島捕虜住民の男女6人の処刑である。大城教頭はたびたび隊を抜け出して妊娠中の妻に会いに行ったが、スパイの恐れありとのかどで、処刑したと赤松隊は言うが、曽根の見たところに依れば、大城徳安はスパイ容疑で拷問に掛けられていた。後に舌を噛んだがその時は死ななかったが、もう白状の意思なしと隊から判断されて斬首されたと聞いた。

米軍に使わされた伊江島の若い男女3名づつの6人は、このまま帰したら陣地内の情況を米軍に知らされてしまうから、帰すわけにも行かず、さりとて陣地内に留め置くにも、食料など無いからそれも出来ず死んでもらうしか他に方法が無かったと、住民6名の処刑にもっともらしい理由を挙げている。
しかし、すでに2日前に曽根一等兵達が米軍に投降した事は分かっていて、彼らから陣地内の情報は伝わっていると見るのが自然ではないか。米軍も赤松隊から投降者が出たから、隊も降伏の可能性ありと判断して、伊江島住民に降伏勧告書を託したと推測できる。今更、陣地の情況がバレルから処刑さざるを得なかったでもあるまい。

彼らが、大城徳安と伊江島住民を同日に殺した理由は、2日前に曽根一等兵らに逃亡された忌々しさからに他なるまい。精神的に不安定になっている所に住民が勧告書を持ってきたので、「こいつらおめおめと敵の捕虜になった上に、降伏しろとの紙まで持ってきやがって・・・」の怒りから大城教頭と男女6人を同時に処刑したのであるまいか。

曽野綾子は、赤松隊が陣地を死守する意志があったから、情報を知られては成らず、やむなく伊江島住民6人を処刑したのだと赤松隊の全面弁護に終始している。が、すでに2日前の曽根一等兵らの投降で陣地の様子は米軍に知られているのだ。何の事無い、「赤瓦の家」を読めば、処刑は感情に任せての暴虐行為でしかなかったことが解る。
9日に本屋へぶらり立ち寄ったら、WILL8月増刊号が沖縄特集として本日発売となっていた。さっそく買って、ザーッと眺めてみたら曽野綾子の2編を含め大半のページが、既に当誌や別の右翼誌などに掲載されたいわゆる使い回しの論考で占められていた。それでも、自分にとっては初めて読む文章もあったので、買っても損は無いかとは思ったが。

内容は、「集団自決」に関するものが主であり、論者は老齢の渡部昇一・田久保忠衛、沖縄の事を知らない櫻井よしこ、梅澤元隊長・皆本元少尉を除けば、訴訟代理人の徳永某・松本某、おなじみ藤岡信勝、鴨野守など等の「曽野綾子チルドレン」と呼ぶべき御用物書きたちである。
その末席に、江崎孝という沖縄在住「数十年」の高齢人物が名を連ねているが、これが例の「狼魔人」だという筆者紹介である。どうりで狼魔人は、沖縄社会の微に入り細に入った事を知っているのだと思った。この人物も「宮平秀幸」のことは書かなくなっている。
藤岡と鴨野が連名で、沖縄タイムスなどの地元新聞が「宮平記者会見」を無視した事を非難する文章を載せている。今頃なんで?と小生は思ったが、この文章は3ヶ月の前のwillに載せたのをそのまま載せている。まだ、大江裁判の一審判決が出る前の文章に違いないが、この点、雑誌社は杜撰と言うしかない。

鴨野守は、「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」という題の文章を、単名で書いている。集団自決体験者としての語り部・金城重明氏の戦後の証言を微に入り細に入り検証し、その矛盾点を突いて、集団自決現場における金城氏の「大量殺人者」としての姿を浮かび上がらせるという趣向の文章である。
鴨野は金城牧師に対して、「多数の村民の命を奪ったという犯罪行為を行ったのだから、赤松隊長が自決命令を出した言える立場の人間ではない」という意味のことを言っている。
たとえ、その時、金城氏が多数の村民を殺した事実があるにしても、それが赤松隊長の「集団自決」への責任が無くなる理由にされる事柄ではない。この金城氏の証言の矛盾については、第2審に書証として提出された秦郁彦の「諸君2月号」掲載の文章の中にも、全く同じ内容の記述がある。名誉毀損裁判には関係ないような金城氏への攻撃を、彼らは何のために行うのか?

この秦氏の文章の中には、曽野綾子法廷証言から引用の「プシュケー」に関する、過去の金城氏と曽野の解釈論議についての記述がある。これが法廷で証拠として質疑応答されるとなると、原告は自分らの首を絞めかねないという面白い事態になるかもしれない。(続)
私は3月中旬の日記で、曽野綾子が1988年の家永裁判のとき、「プシュケー」という聖句を巡って、金城牧師にハッタリをかまして謝らせた事を書いた。申し訳ないが、それを要約・転載させていただきたい。秦郁彦や鴨野守・徳永・松本弁護士などの曽野綾子チルドレンはこの件を利用して、金城氏をターゲットしようと目論んだようだ。

16歳のとき、渡嘉敷島集団自決で母親と弟妹のみならず、他人を多数手に掛け、自らは自決する機を失して生き残ってしまった金城氏であるが、戦後キリストとの出会いにより自分の生きる縁を取り戻して、信仰の道に生きることになった。 その金城牧師は1988年2月、第3次家永教科書裁判で、家永側の証人として法廷に立ち、意見書の中で次のようにキリスト教との出会いを述べている。
「私の心を捉えて離さなかった聖句は、『たとい人が全世界をもうけても、自分の命(プシュケー)を損したら、なんの得になろうか。また、どんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。』(マタイ福音書16章26節)とのイエスの言葉だった。(中略) …
イエスに於いて人間の命が全世界より尊いといわれる時、それは単なる思想ではない。キリストが十字架上でご自分の尊い命を犠牲にすることによって、私共罪人を真の人間へと解放してくださった。…」
この証言は、この聖書のイエスの言葉によって、生きる力を取り戻したという、金城氏にとって人生の根本に関わる証言である。

この金城氏の証言に対し、曽野綾子はその後の国側の証人として出廷し、何と言ったか。
曽野は、金城牧師の命(プシュケー)の解釈は間違っている。それにはそんな意味もあるが、それ以上に、身体が失われても消えない「永遠の命」の意味であるとした。
「塚本虎二先生という方は聖書研究者で、(中略)この方が 『この言(ことば)の意味は、 (いくら全世界が自分の有(もの)であっても、これを享楽する肝心の自分が死んでしまえば何にもならない)という意味ではもちろんない』と書かれて、『たといこの世で全世界を自分のものにしても、(中略) 本当の命、この世と共に消え失せない永遠の命を失うならば、何の役にも立たない 』という意味であるとおっしゃっています。金城先生の御解釈は牧師さんとしてお違いになると思います。
『イエスにおいて人間の命が全世界よりも尊いといわれる時』とございますが、こういう言葉は聖書にございません。以上でございます。」
と、聖書研究の権威らしき学者の名前を出して、高飛車に金城牧師をやっつけている。(裁かれた沖縄戦・高文研1989 198〜200頁)  (続く)
本当に曽野綾子の解釈が正しくて、金城牧師の解釈は間違っていたのか?その後金城牧師はこの曽野綾子の攻撃に対して、どんな反応を見せたのか?
何ということか、金城氏は著書の中で、自分が間違っていたと認めたのである。(「集団自決を心に刻んで」高文研1995 185から186ページ)
しかし、これでプシュケー論争にケリが付いたのでもなかった。

確かに塚本虎二氏の著作で見ると、曽野の言う通り、
「この言の意味は、『いくら全世界が自分の有(もの)であっても、これを享楽する肝心の自分が死んでしまえば何にもならない』という意味ではもちろんない」、 と書いている。そしてその後に、次のように書いている。
「『たといこの世で全世界を自分のものしても、… 本当の命、この世と共に消え失せない永遠の命を失うならば、何の役にも立たない。…』という意味である。」
塚本氏は、プシュケーを「単なる命」から意味を押し広げて、「永遠の命・魂」の意味まで込めてイエスは言ったのだ、と解釈している。 だが、これは塚本氏独特の解釈であり一般的解釈ではない、というのが多数派の意見である。言ってみれば、塚本氏の解釈は異説であり定説ではないらしい。 ギリシャ語で書かれた新約聖書の「プシュケー」は限りある命を言い、永遠の命は「ゾーエー」というのが常識だそうである。
http://www1.vecceed.ne.jp/~te1518/shukyo3.htm
http://www.joshigakuin.ed.jp/jg_news_bk2006_04.htm

学者の塚本虎二氏が「プシュケー」と「ゾーエー」の違いを知らないはずはなく、この節に関しては、「プシュケー」を曽野綾子の言ったような解釈をしているに過ぎない。カトリック教徒であり、長年聖書を読み込んでいるはずの曽野綾子は、「プシュケー」と「ゾーエー」の違いを知らなかったのか?或いは知っていて塚本氏の異説的解釈を、金城氏をやり込める材料に使ったのだろうか? また、沖縄キリスト教大学の学長まで勤めた金城重明氏は、何故にそうあっさり、曽野綾子の邪な指摘に対して、自分が間違っていたとひれ伏したのだろうか?

直接裁判の本旨とは関係ない金城氏の意見書の1部分を捉えて、曽野綾子はハッタリを噛ませたとしか私には思えない。金城氏は多分、生真面目で人と正面から対立できない気弱な人物だと思う。ケンカ上手の曽野綾子の気合に呑まれたという事か。
右翼月刊誌「will」が「狙われる沖縄」と題して、8月特集号を出している。
全体の頁約3分の2が以前に掲載されたものを再び、同じ文章で出している安易な企画である。

世界日報の記者・鴨野守が、これは今回初出で、集団自決の生き残り者である「金城重明牧師」を論難している文章がある。
鴨野によると、金城氏はこれまで集団自決の語り部として、幾多の証言を残して来ているが、その都度、微妙だが重要な部分で食い違いを見せている。また父親の死や家族以外の大量殺害について十分に語っていないと指摘する。

鴨野が疑問だとするのは、第1に父親の死について具体的記述が無いのは不自然であり、金城氏が父を殺したのではないかの疑惑があるという点、
第2に他の自決生き残り者の証言から考えて、金城氏は家族以外に多数の住民を殺しているに違いないのだが、なぜこの事を隠しているのかという点である。
この2点が金城氏の証言に強くまとわり付いている疑問点だと指摘し、結局、鴨野は「金城重明氏は集団自決のとき、自分が犯してしまった親殺し・他の住民への大量殺害の責任を免れる為に、住民の集団自決=住民同士の殺し合いを、赤松隊の命令・強制によるものとする言論を行い続けてきたのだ」と金城氏を告発している。

「大量殺人犯」としてのイメージを浮かび上がらせて、語り部・金城重明氏の品格を損ねようとする試みである。大江裁判第二審の書証提出された「諸君2月号」の秦郁彦の論文にも、同じ内容の記述がある。その中に、第一審に証人として出廷した金城氏に、原告側弁護士が、「金城兄弟と共同で住民を多数刺し殺した」という他の証言者の体験談を読み上げ、その人数等に付いてしつこく金城氏を問い詰めたが、見かねた裁判長が質問を制止する場面があったそうである。秦郁彦は裁判長が割って入らなければもっと真相を告白させられたのに、と不満そうである。
この金城重明「大量殺人者」イメ−ジアップ作戦は、鴨野・秦・弁護士徳永某・松本某らの共同作業のようである。(続く)
(長い文章ばかりなので詳しく読む気のもなんないが、ざっと流した程度の感想としては「戦争という極限状態」だったことがまったく考慮に入ってないな
本当に大変な体験をした人ほどあまり話したがらないとか
私の母は集団自決から偶然逃れられた一人だが、それでもその話を詳しく話してくれたのは20年ほど前
その壕が発掘されて多くの遺骨の像が映し出されたTVを診ながら
この一連の書き込みは「議論のための議論」机上の空論か言葉遊びにしか見えない
以上閑話休題)
>jam さん
コメントを有難うございます。

小生の親やその親兄弟達も、「戦争という極限状態」を逃れた者ばかりですが、やはりイクサについての詳しい話しは、彼らから聞かされた事なかったです。

で、私もそうですが、アナタも恐らく「戦争という極限状態」を経験してないわけでしょうね。何故に私の書き込みが、「議論のための議論」机上の空論か言葉遊びにしか見えない、のでしょうか?その辺りをもう一寸分かりやすく説明して頂かなければ、腑に落ちませんね。

曽野綾子「「ある神話の背景」(集団自決の真実)をお読みになった事あるでしょうか。もし読んだ事お有りなら、この本のへの感想、そして沖縄各地で起こった「集団自決」へのお考えを聞かせて頂ければ有り難いですが。
確かに、金城重明氏は過去の証言で、家族以外の住民の命を奪った事については多くを語っていない。が、だからと言って、彼が真実を隠しているのだと胡散臭く言うのは的外れではないか。金城氏自身は多く語らなくても、他の体験者の証言、また金城氏の証言の端々から、それは知られていた事である。

初期の証言、1971年の「潮」に載せられた証言では、他人を手にかけた事は言ってないが、その次に載っている証言者・安座間豊子が「今は首里で牧師になっている人が・・・」と、金城氏が家族以外の人を多数殺した事を暗に言っている。が、彼女は金城氏を恨む言葉を述べてはいない。

1972年の「沖縄戦ー県民の証言」(日本青年出版社)では、二つ年上の兄が銃剣で父母を刺し殺したと記述されている。しかし、この事については、出張法廷で訊かれた時、「自分が書いたのでない、間違っている」と全面否定している。だが、鴨野守はしつこくこの点を突いている。
たとえその時、金城兄弟が父まで殺したとしても道義的に責められる事でないのだが、鴨野や秦郁彦らは以前の証言との食い違いを突いて、金城氏を「疑惑のある人物」に仕立てたいのである。

1987年発行の「渡嘉敷村史」の体験記録で、山城盛冶という当時14歳の人が、金城兄弟と組んで、多数の住民をごぼう剣で刺し殺したり、老人を木に吊るして絞め殺したという証言をしている。
この事については、金城氏はどの証言でも述べてないが、山城氏が村史という公式文書で証言している事によって、この件も周知の事なのである。金城氏が語らなかったといって、氏を責める遺族や関係者を居ないだろう。

誰もがあの「集団自決」は「犬死」でしかなかったと判った今、そこまで徹底して人の命を奪うこと無かったのではないか、と実行者に非難がましい目を向けるのは戦後の発想ではなかろうか。
鴨野と同じに金城証言追求をした「諸君」2月号掲載の、秦郁彦の論考を書証として、法廷に提出したそうだが、「プシュケー」の解釈論争もあるし、次の審理でどういう攻防になるか楽しみである。


今日沖縄の新聞へ投稿をした。掲載されるか分からないんで、安易だがここへそのままコピペさせていただきたい。

 沖縄戦における慶良間の元守備隊長と、もう一人の守備隊長
の遺族が、「沖縄ノート」の著者・大江健三郎氏と岩波書店を
訴えた「名誉毀損」裁判は、三月の第一審判決で全面的に棄却
された。原告の一人・元座間島味守備隊長は「沖縄ノート」を
裁判が始まるまで一度も読んだことないと、もう一人は集団自
決に関する箇所を数回だけ読んだ事あると証言した。座間味の
元隊長に関する記述はこの本にないのである。この訴訟は、原
告の「意思」で提起されたものでなく、靖国応援団の原告弁護
人・新しい教科書を作る会・一部保守論壇人・元軍人などによ
って後押しされたものである事が容易に推測できる。
 
原告及び後押し勢力が思想的に依拠している書物が、曽野綾
子氏の著書「ある神話の背景」(「集団自決の真実」と改題再
刊)である。原告の元渡嘉敷守備隊長の弟氏は「曽野氏の本が
出版されて魂が救われた」と言っている。「作る会」の藤岡信
勝会長は軍命を主張する本は山ほどあるが、無い事を証明した
のは曽野氏の本一冊だけしかないと、バイブルのごとく崇める
発言をしている。「沖縄ノート」を最初に批判したのも「ある
神話の背景」の中の一節である。だが、この本は、沖縄タイム
ス社・「鉄の暴風」が記述した渡嘉敷島の「集団自決」軍命否
定と住民処刑の責任否定を主な内容としており、「沖縄ノート
」批判はごく一部分にすぎない。大江健三郎氏は「鉄の暴風」
を資料にして「沖縄ノート」を執筆したと証言している。
 
だとすれば、原告と後押し勢力は何故に、「鉄の暴風」でな
く「沖縄ノート」を名誉毀損で訴えたのだろうか?「鉄の暴風
」は「沖縄ノート」より二十年も前に発刊されており、隊長の
実名を挙げ隊長が自決を命令したと記述している。「鉄の暴風
」を原資料にして数々の戦記が執筆され、渡嘉敷島「集団自決
」隊長命令説は踏襲されて、定着されたと曽野綾子氏は論じて
いる。原告にとっては「沖縄ノート」よりも、「鉄の暴風」の
記述に強い名誉毀損理由があるはずである。ノーベル賞作家・
大江健三郎氏を訴えて「鉄の暴風」を訴えられない処に、原告
側の政治的いかがわしさと後ろ暗さが見て取れる。渡嘉敷島の
「集団自決」について、日本軍に責任がなく「鉄の暴風」の記
述は虚偽であると、沖縄の出版社を訴えるほどの信念は軍命否
定勢力には無いのである。それをすれば、元隊長二名の名誉毀
損裁判にはならず、沖縄戦の軍の責任について「沖縄」全体と
対決する場となるだろうからである。
 
「集団自決の真実」と改題されて再刊された曽野綾子氏の著
書は、本土では保守層の人々と、沖縄戦のことを詳しく知らな
い読者に受け入れられていると思う。曽野氏の分かりやすい文
章は妙に納得させられる調子良さがあるし、一般ヤマトゥンチ
ュの「日本軍は言われているほど悪い軍隊ではなかった」とい
う感情を誘いやすい。しかし、この本は繰り返し読めば読むほ
ど疑問点・不信感が湧き出てくる書である。少なくともあの県
民大会に参加した十一万余の方々はこの本を入手して読むべき
である。読んで内容の矛盾点を見つけ出すことが、また繰り返
されるであろう教科書書き変えに対抗する力になると思う。

キー坊さんすごいね!この知識量と文章力はハンパじゃねーな


しかし反日感情が際立っていて文章の説得力が薄くなっているもったいない。



ある神話の背景、まだ読んでないんだ。他にも「これぐらい読んどけカスが!」てなオススメあったら教えて☆


俺もしかしたらここから独立派になるかもしれんな。
数ヶ月ぶりのコメントになってしまって申し訳ないのだが、「集団自決」について力のこもった作品を書いた、ルポルタ−ジュ作家を「発見」したので、ここで紹介してみたい。

そのルポ作家とは、曽野綾子が「ある神話の背景」で、I氏とイニシャルで書いてこき下ろしている石田郁夫氏である。(「集団自決の真実」314頁〜)
石田郁夫は1993年に故人となったが、1967年に初めて沖縄を訪問し、沖縄本島、八重山、与那国、渡嘉敷島まで行っている。訪沖の主な目的は、戦争中の慶良間の「集団自決」と、そこに徴用された千人にも及ぶ朝鮮人軍夫の実態を調べるためだった。渡嘉敷島では、「集団自決」について住民の本音をかなり深いところまで聞き出している。日本本土や沖縄本島で流布している情報とはかなり違って、日本軍を弁護する意見のほうが多かったそうである。朝鮮人軍夫の動向を詳しく知る住民は居なかったそうだ。
石田郁夫氏のルポは、戦時中の日本軍とそれに進んで協力した地元指導者の、責任を問うところにまで及んでいる。といっても、赤松隊に甘い見方をしている内容ではない。私が探して読んだ限りでは、「集団自決」に関するルポは4編書いている。1972.4月に「サンデー毎日」に書いたものは、日本軍赤松隊の本質的な部分を突いた批判になっているので、「ある神話の背景」を雑誌・「諸君!」に連載中だった曽野綾子は、例によって外国の権威の文章を引用しながら、ヒステリックに石田氏を貶している。
石田氏の沖縄に関するルポルタ−ジュは、一読の価値あるものだと思ったので、ある戦史研究家の掲示板で紹介した。

http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=expn

今回、自分もブログを立てて、石田氏の4編の、慶良間に関する作品を全文、公開したので関心ある方は御一読ください。

http://keybowokinawan.blog54.fc2.com/
 ★「ある神話の背景」(集団自決の真実)を読もう

タイトルは、沖縄の新聞の投稿欄へ送った原稿の内容である。
昨年送った論壇への投稿は採用されなかった。

今回の分も、曽野綾子とその本を貶す内容なので採用されないかもしれない。一応、気分的には一区切りついた。




投稿文

 「大江・岩波裁判」で、原告勢力が思想的・理論的に強く依拠している書が、七三年発刊の曽野綾子著・「ある神話の背景」である(〇六年に「集団自決の真実」として再版)。赤松嘉次渡嘉敷島守備隊長が発したとする「自決命令」には確たる証人も証拠も無いことを論証し、沖縄の戦史研究に大きな反省を迫る内容であった。事実の十分なる検証なしに、一軍人の「神話的悪人」イメ−ジを作り上げてしまったー。この点は当然に沖縄言論界は反省すべきことであった。
 が、直接的隊長命令がなければ、「集団自決」に軍の強制性はなく、指揮官たる赤松隊長に責任がないと言える事だろうか。隊長は捕虜にさせないために住民を一ヶ所に集結するよう命じた。ために米軍の砲撃に晒されて、集団で自死せざるを得ない状況に追い込まれたのである。曽野綾子氏は、村民処刑など赤松隊が行った他の所業も、あの状況では仕方なかったとして免罪論を展開するが、近年の検証で、「ある神話の背景」には多くの矛盾点・疑問点が見出されている。
 例えば、曽野氏が証拠・証人として重きを置いているのは、赤松側からの証言・文献がほとんどである。その一つ、元隊員の谷本小次郎氏が戦後まとめたという「赤松隊陣中日誌」は、戦時中に書かれた「公式陣中日誌」とは大幅な違いがある事が判っている。また、「鉄の暴風」渡嘉敷島の項は、体験者でない宮平栄治・山城安次郎の両氏からの伝聞(宮平氏の否定にもかかわらず)で書かれたと断定しているが、著者・太田良博氏からは、当事者の米田元村長らから取材したと完璧な反論がされている。驚いたことは、曽野氏は自分の本の中に名前が二度も出てくる兵事主任・新城(富山)真順氏を、八十八年の「家永裁判」の証人尋問でそんな人は知らないと証言している。
 伊江島の村民六人を処刑した理由を、解放すれば陣地の状況を敵に知らされるからやむを得なかったとする。だがその二日前に、曽根一等兵が朝鮮人軍夫ら二十人程を引き連れて逃亡、米軍に投降している。既に陣地の様子は知られているはずである。他の住民への見せしめであっただろう。
 数々の疑問にかかわらす、再版された「集団自決の真実」は書評で見る限り、本土の人々に好評のようである。「集団自決」は軍の「強制」と考える沖縄の人に、この本を(反面教師として)読むことをお勧めする。
キー坊さん


>隊長は捕虜にさせないために

この部分は個人的に疑問が残ります。

隊長自身に
「捕虜になれば非情な拷問をうける」
という刷り込みがあった可能性を否定できないのならば
住民を一ヶ所に集め、捕虜になる事を回避しようとした
だとするとそこに悪意があるとは考えにくいのですが

キー坊さんはどうお考えでしょうか。



自分は知識もなく若輩なので
キー坊さんの様な方にご意見をいただけると大変勉強になります。


お願い致します


僕の駄文のせいで真意が伝わらないのでしたら
当然ですが打ち直します。
少し(かなりか?)トピずれになるかも知れませんが…「不時着 ―特攻『死』からの生還者たち」(日高恒太郎 文春文庫)もやはり、「自決」を強要された若いひとびとを丁寧に訪ね歩き、その真実を究めようとした異色のルポルタージュです。初出は新人物往来社ですが、その後も著者は自分の出身地である種子島などを丁寧に歩き、「英雄伝説化」する特攻に徹底的に斬り込んでゆき、文庫として集大成します。そこは佐木隆三氏にコザ市で鍛えられた著者ならではの粘り強さ!読みやすさは後の週刊文春取材記者時代の経験が活かされています。「文庫化にあたってのやや長いあとがき」に著者の思いが集約されています。
ゲッター先輩

沖縄戦の特徴の一つとして「軍民一体」があります。「軍」は「民」を都合のいいように使う一方で,ウチナーグチで本土の軍人に分からない形で情報が外に漏れること,つまりスパイになることを極端に恐れていました。それについては公式の文書の形で残っているはずです。
特に座間味や渡嘉敷などの島では軍人は独立した基地を構えるのでなく,民家に泊めてもらう形でしたから,機密情報の漏れについては本島以上に敏感だったと考えられます。捕虜になることを恐れるというのは人道的な理由ではなく,あくまでスパイになることを防ぐためです。
> Andyさん

ありがとうございます。


なるほど人道的な配慮ではなかったということですね。

的外れな質問で申し訳ございませんでした。
沖縄の新聞への投稿は、結局採用されなかった。
固有名詞を数多く入れてしまったからかもしれない。

>ゲッター先輩さん
コメント有難うございます。
Andyさんが代わって、答えてくれていますので、これ以上の答えは必要ないのですが、付け加えれば、慶良間の三戦隊は「秘密特攻基地」だったので、住民への監視には尋常ならぬものがあったのです。その辺は、宮城晴美・「母の遺したもの」に詳しいです。

>隊長自身に 「捕虜になれば非情な拷問をうける」 という刷り込みがあった可能性

当然、可能性としては全否定できないですが、捕虜になった住民を10人以上も処刑している事実を見れば、一箇所集中指令は「思いやり」の故ではないと思います。
さらに付け加えれば、慶良間の陸軍特攻舟艇は「体当たり」特攻武器ではなく、寸前で転回し、逃げ去る方式の「生還型」攻撃艇だったのが事実です。だから、赤松隊は「生存」への執着心をもった部隊だったのです。(この事は、第一戦隊の梅澤隊長及び、赤松隊の知念副官が証言しています。だが、曽野綾子は本の中でこの事を伏せています。)

>短矩亭
興味深そうな著書の紹介有難うございます。

>Andyさん
お助け有難うございました。

下手くそですが、小生もHPとブログを立てました。暇なときにご覧ください。
失礼、URL記入を忘れました。下記です。

http://keybow49okinawan.web.fc2.com/

> キー坊さん

ありがとうございます。

疑問な点は今度も質問してよろしいでしょうか?

個人的にも勉強して、少しでも議論できるようなまともな脳ミソになったら自己の主張等も書き込みしたいと思います。


ありがとうございました。

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