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史跡コミュの首里城跡

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 沖縄県那覇市首里

 1925年04月24日、文部省が正殿を国宝に指定。
 1928年01月23日、文部省が守礼門他3棟を国宝に指定。
 1945年05月27日、米軍の攻撃で全建造物が消滅。
 1955年11月29日、琉球政府が史跡に指定。
 1972年05月15日、文化庁が史跡に指定。
 2000年12月02日、UNESCO世界文化遺産に指定。

 14世紀中期から後期に造営されたと推定され、1427年に建立された碑文によれば、この時期には周辺に人工池・龍潭(リュウタン)を掘るなど、威容を整えたグスクでした。1429年、このグスクを拠点とした中山王国が、北山・南山両王国を撃滅し、統一国家たる琉球王国が誕生した。その後、1879年の明治政府による琉球処分までの約450年間、琉球国王の居城となった。
 城の周囲には琉球石灰岩を積み上げた城壁が楕円形に巡っているが、この城壁は南西側の一部を除き2重になっており、外周の城壁は16世紀頃に補強されたものである。
 城の規模は東西約400m、南北約200m、面積は約4.7haで、城内は大きく三つの領域に分けられる。一つ目は表向きの行政や儀式を執り行う領域で、正殿前の御庭(ウナー)を囲う建物やその西側の下之御庭(シチャヌウナー)周辺の建物などがある。
 二つ目は国王や王妃、親族、女官などが生活する奥向きの領域で、正殿裏側一帯がこの領域に当たる。
 三つ目は祭祀に係わる領域で、下之御庭南側の一帯を占める「京の内」と呼ばれる空間がこれに当たる。王国における重要な祭祀を行う空間で、高い石積で囲われた内部には幾つかの御嶽があった。首里王府には聞得大君(キコエオオギミ)と呼ばれる神女を頂点とする神女組織があり、祭祀によって王府を側面から支えていた。
 首里城は過去4回の焼失と再建を繰り返していたが、琉球処分後は荒廃が進み、大正時代には一部の建造物が取り壊されるに至った。しかし、1928年〜1933年に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となって源為朝と歴代国王が祀られた。
 ところが、太平洋戦争中の沖縄戦において牛島満陸軍中将麾下の第32軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いた事もあって米軍の猛攻撃に晒され、1945年5月27日に戦艦ミシシッピの艦砲射撃で全建造物が消滅してしまった。
 戦後、城跡には琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まり、1972年の日本復帰後は城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年に琉球大学が移転すると、再建計画が本格化し、1992年には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。
 現在復元整備された建造物は1712年以降に再建された形態を基本にしている。守礼門は2000円札のデザインに採用されている。

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